
「美術部に、男子テニス部の横断幕を制作してもらいたい」
「えっ? お、横断幕?」
「あぁ、先日、一枚破損しているのが判明してな」
柳の予想外の言葉に、唯は緊張していたのも忘れて、不思議そうに首を傾げた。
てっきり、仁王のことを聞かれるものだとばかり思っていたのだが、どうやら違ったらしい。喧しく奏でていた心臓が、落ち着いたところで、浮かんだ疑問を彼女は柳にぶつけた。
「あの、そういうのって、学校からどこかに依頼をして作ってもらっているんじゃないんですか?」
「確かに、こういった備品に該当するものは、各部活毎に割り当てられている生徒会からの年間予算より計上して発注をかけている。が、今回は、一枚というのもあってな。今年は、テニス部にとっても特別な年でもあることを踏まえて、折角なら少し趣向を凝らした一つしかないものを制作したらどうだという話になったんだ。そこでだが、レタリングは美術部に、縫製は手芸部に依頼をしたいと思っている」
そう言って彼は、唯の目の前にクリアファイルを置いた。
中には、横断幕のデザイン画らしきものが入っており、色やフォントの形式についての指定が書き込まれていた。どうやらベースの布地に手書きでレタリングしろということらしい。
「無論、美術部や手芸部のスケジュールに影響がないことも顧問を通じて確認している。全国大会までに完成してくれれば構わない」
両腕を組んだまま、相変わらず険しい表情をした真田が、そう付け加えた。
関東大会など、あくまで通過点での一つでしかないとでも言うような言葉にも、隣の柳は全く動じない。
完全に彼らのペースで進んでいく展開に、唯は口を挟みかけたが、すぐに噤んだ。
立海大附属中学校において、テニス部の影響というのは、思いのほか強い。ここで仮に断ったとしても、結局は生徒会を通し、正式な依頼として顧問の城咲に話がいくことが容易に予想されたからだ。
彼はこういうイベントに対して、意外なほど好意的な面がある。学校周辺地区に貼るための美化ポスター制作依頼をどこからか仕入れてきて、部員に一人一枚デザインさせたのは、昨年末の話だった。
それに、一番危惧されたのは、この場に長居をすればするほど、話が仁王のことに及ぶ可能性は高くなることだった。
この二人から問い詰められようものなら、最早逃げ場などない。仁王ほどの饒舌な人間が、柳には敵わないと言うのだ。ならば、その通りなのだろう。
「どうした?」
押し黙ったままの唯に柔らかい口調で柳が尋ねる。彼女は視線を彷徨わせたあと、唇を僅かに開いた。
その瞬間をまるで見計らったように、小さなノックの音が響き渡く。
真田が一言、ようやく来たかと漏らせば、柳は微かに含み笑いを浮かべた。
一体誰がと、唯が扉へと目を向けたところで、そこへ立つ彼の姿を見て、あっと声を上げた。
「この様子だと、話はまとまったってことで良いのかな?」
ゆっくりとした足取りで、三人の前に歩み寄ってきた幸村は、彼女の手に図面一式が入っているクリアファイルがあることに気付くと、安心したように笑った。
「この前は、どうもありがとう」
「あ、こちらこそ……」
「精市、無川と面識があったのか?」
「うん。まぁね」
軽く会釈をした幸村につられるように、唯も頭を下げれば、その様子を見た柳が、意外そうな口ぶりで幸村に尋ねたが、彼の表情は、初めの頃と全く変わらないままだった。
(この人。テニス部の部長だったんだ……)
さすがの唯も、精市という名前を聞いて、その存在をすぐに思い出す。
幸村は、昨年の冬に突然入院し、最近になってようやく退院したのだと聞いていた。
入院の経緯については唯の知るところではないが、約半年ほどの入院となれば、単純な怪我などの理由ではないだろう。
あろうことか、彼女の目の前に、いわゆる“立海三強”が見事こうして揃い踏みしたことになる。
「改めて、部長の俺からもお願いするよ。良いかな?」
お願いという割には、柳以上に嫌とは言わせない雰囲気を纏っている語調に、唯は首を縦に振るしかなかった。
「わ、分かりました……あの、そろそろ部活に戻りたいので、これで失礼します」
この状況にいよいよ居たたまれなくなった唯は、勢い良く立ち上がると、クリアファイルを胸に抱き、三人の方は見ずに生徒会室から逃げるようにして歩き出した。
すぐに真田の声が追いかけてきたが、彼女は構わず生徒会室の外へと出ると走り出す。
遠くなる足音を聞きながら、益々眉間に皺を寄せた真田が、くすくすと笑う幸村に視線を投げた。
「……蓮二、あいつは、本当に仁王の知り合いなのか?」
「柳生が俺に相談するくらいだからな。話を聞く限り、間違いないだろう。で、実際はどうだったんだ。精市?」
「うん。でも、忙しそうで、あんまり話せなかったよ。だけど、少なくとも、仁王とは反対のタイプじゃないかな」
だろうなと頷いた柳は、ふと思いついたようにノートに一文を書き付けると、ぱたりとそれを閉じた。