
「あ、無川部長。お疲れ様です」
唯にとって、結局謎が残るままとなってしまった訪問者が訪れてから、更に二日後のことだった。
放課後、職員室に寄る用事を終えてから、唯が美術室に向かうと、珍しく扉の前に先客がいた。
「お疲れ様です。佐竹くんが部活に顔を出すなんて、珍しいですね」
「そろそろ締切じゃないですか。このままだと間に合いそうにないんで、学校で仕上げることにしたんです」
がちゃんと鍵が回り、木製の扉が軋みながら開く音が響く。
美術部の部員の一人である、二年の佐竹司は、扉の隣の壁に立てかけてあった布に包んだキャンバスを手に取り、唯に続いて美術室に足を踏み入れた。
唯は美術室に入ると、すぐに準備室の鍵も開け、自分のイーゼルを抱えて戻ってきた。そうして、いつもの場所へ設置し、制作準備に取り掛かる。
佐竹も佐竹で、彼なりに好んで占有しているテリトリーがある。彼女と同様に陣取って作業を始めるはずだった。そうなれば、互いに自分の世界へ入ってしまうため、同じ室内に居たとしても会話らしい会話などなくなってしまう。
ところが、今日に限っては、珍しいことが続いた。机の上に荷物が置かれたその音が気付くきっかけとなったが、佐竹は唯に近いところで画材道具を広げ始めたのだ。
近くといっても、彼がいるのは、唯と同じ列の三つ繋げて並んでいる大机の内、中央の一つを挟んだ先だったため、結局のところは、彼女はあまり彼の存在を意識せずに済んでいた。
そして、イーゼルの布を取り払ったところで、佐竹が彼女の絵の方を見つめていることにようやく気が付いた。
「無川部長。もう作品完成間近ですよね? 余裕、ありますか?」
何だろうと思って、唯が佐竹の方を見ると、彼は自分の製作途中の絵を彼女にも見えるよう、空いているその中央の机の上に置いた。
彼女と同様に油絵のそれは、今年のテーマである『自画像』の通り、佐竹の表情が描かれている。
唯が流れるような曲線を好んで使うのとは反対に、彼の原色が好んで使われている線画は、直線的で荒々しく、そして力強い。何より鋭い眼光は、憤怒というよりも、決然とした意志を感じさせた。
「なんか、あんまり自信がなくて、良かったらアドバイスもらえませんか?」
「アドバイスって、そんな……」
一旦筆を机の上に置いた唯は、佐竹の絵に視線を落としたままたじろいだ。
今の自分には、彼の絵について評論の真似事をする資格など全くない。もし佐竹が、そういったものを欲しているのならば、それこそ城咲に乞うほうが、よっぽど建設的だった。
そのことをどうにかして伝えようと、適切な言葉を探していると、先に佐竹が憂いを含んだ声色で続けた。
「無川部長の絵、俺たちの中でもやっぱり群抜いてると思うんですよ。上手く言えないけど、俺と同じ絵のはずなのに、言葉で直接語るより、ずっと饒舌に語ってるっていうか。何かが決定的に違う。皆、口では言わないけど、そこんとこホントにすごいって思ってるし。去年だって、美術部創設以来、初めての佳作受賞じゃないですか。先生たちも最初は結構盛り上がってたんですよ……でも、結局、蓋を開けてみたら、男テニの二連覇ばっかが注目されてたけど」
男子テニス部の下りを口にした瞬間、本人は意識していないであろうが、佐竹の言葉の端々に微細な棘を含ませる。併せて彼の表情もにも険しさが滲み出たが、唯は指摘をせずにやんわりとそこへ宛がうように切り返した。
「向こうは実際、歴代に渡って成績も残してるし、学校側の期待がそっちに向くのも仕方ないと思いますよ」
「そうだとしても、やっぱり心情的には納得いかないですよ。もう少し、こっちだって評価してもらったって良いじゃん。無川部長、今年、頑張って下さいね! 勿論、俺も努力しますけど」
「……ありがとうございます」
男子テニス部に対して、変に対抗意識を抱いている後輩をどこか微笑ましく思いながらも、唯の心中は複雑だった。
彼女の視線の先には、柔和に笑みを浮かべる自分がいる。佐竹にの目に、はたしてこれがどのように映っているのかという疑問が浮かんで、それは言葉にならないまま、彼女の内側へと落ちていった。
「あ、すいません。肝心なこと伝えるの忘れてました」
「肝心な、こと?」
「はい。無川部長が来る前に、生徒会長がここに来たんですよ。何か、美術部に依頼したいことがあるらしくて、無川部長が来たら、生徒会室に来て欲しいって伝言頼まれたんですよ」
佐竹の話に、唯は首を捻る。このタイミングで、生徒会から請け負うような内容が思いつかなかったのだ。
唯一心当たりがあるとすれば、文化祭の際に校門を飾るボード制作依頼ぐらいだが、時期的にもまだ早い。
「何だろう? 分かりました。今からちょっと行ってきます」
そう言って、唯がイーゼルに布を掛けようとしたところで、佐竹が声を上げる。
「あ、無川部長の絵、近くで見させてもらって良いですか?」
「どうぞ」
「ありがとうございます! 配色のことでも相談乗ってもらって良いですか?」
唯が了承の意を込めて首を振ると、嬉しそうに佐竹は笑った。
その様子に、彼女はやはり複雑な思いに駆られながらも、とりあえず生徒会室へ向かうために美術室を後にした。