
本来、全く知らない人間が自分のテリトリー内に踏み入っているというのは、非常に気が散るものだ。
今の唯が置かれているこの状況も、決して例外ではない。ところが彼女の場合、再び絵に向き直った瞬間に、意識の全てがそこへと注ぎ込まれたためか、既に相手の存在は全く眼中に入っていなかった。
突然の来訪者は、どこかで見覚えがある気もした。けれど思い出そうにも、彼女の小さなその疑念は、今は目の前のキャンバスに吸い込まれ、すっかり消え失せていた。
美術室には結局のところ、唯が筆を滑らせる音と、少し離れた机の上で、一人の見慣れぬ生徒が画集のページをめくる音が響き渡り、既に時間はゆうに三十分ほど経っていた。
「ねぇ」
おもむろに顔を上げた生徒が、唯に呼びかける。ところが、彼女はそれにすら気づかないのか、全く反応を見せない。その瞳はキャンバスへと惹きつけられたままだった。
その様子を頬杖をついたまま見ていた彼は、くすと小さく笑みを零すと、再び彼女に呼びかけることはなく、手元の画集へと視線を落とす。
一旦は彼女に興味を寄せたその少年もまた、彼女と同様に目の前に広がる稀代の印象派の作品に意識を向けることに決めたようだった。
それから更にしばらくして、筆が机の上に置かれる乾いた音を合図に、唯が深く息を吐き出した。
いつものように両の手の平をじっと見つめてから、ペットボトルへと手を伸ばそうと視線を向けた所で、同時に顔を上げた少年と目が合い、思わず彼女は息を飲む。
そうして、彼がつい先刻訪れた来訪者であり、尚且つ、まだ飽きずに画集を眺めていたのかと驚く反面、今更ながら、自分が絵を描く様を見られていたという事実に対しても気恥ずかしく感じて、慌てて彼から視線を外した。
「すごい集中力だね。声かけても、全然反応しないから感心したよ」
彼は話しながら、ふふと楽しそうに笑う。
唯はどう答えたら良いのか分からず、困ったように僅かに顔を歪めて、彼を見返していた。
光の加減か、元々の彼の微笑み方がそうさせるのか分からないが、唯から見るその少年が与える印象は儚く、言うなれば、彼が求めたその画集の作家が後期に得意とした画風の世界を思わせる。
城咲とはまた異なった種の穏やかさを持つ彼の空気は、意外なほどこの美術室に馴染んでいた。
そんな彼女の心境を知ってか知らずか、彼は同じように微笑みながら、指先で画集のページを捲った。
「それにしても、美術室とは盲点だったよ。もっと早く気付けば良かった」
「え?」
「準備室で、君がこの画集を取り出した時、一緒に本棚の中も少し眺めていたんだけど、どれも図書室には置いてない美術書ばかりだった。一冊だけ俺も持っているのがあったんだけど」
彼に請われるまま画集を取り出すまで、ほんの数分足らずの時間だったと彼女は記憶している。その間に、そこまで見ていたのかと感心しながら、彼の指先が静かに紙面を持ち上げる様子を唯は眺めていた。
「ねぇ、これ、借りられないかな?」
「あ、あの。ここにある画集は貸し出し出来ないんです。その、OBからの寄稿本や初版本とかばかりなので」
「そっか、残念だな」
酷く落胆したその声に、唯は再び困ったように眉を下げた。
こういう時に、咄嗟に気の利いた言葉が浮かんでこないのは、いかに自分に対人スキル的なものが足りないのかというのを自覚させる気がして、どうにも気持ちが重くなってしまうものだ。
「ここで見る分には、問題ないのかな?」
「それなら、大丈夫ですけど」
「じゃあ、それでも良いかな」
言って少年が本を抱えて立ち上がる。そうしてそのまま準備室の方へと歩き出したのを見て、唯も慌てて彼に続いた。
美術準備室は、廊下側に面した壁の上の方に飾り程度に設えられた、小さな観音開きの内窓一つしかなく、しかもそれは常時閉め切られているために、電燈なしでは非常に薄暗い。
ここは、主に美術に関連する備品だけではなく、美術部員たちの制作物の保管場所としても利用されている。狭く、閉塞感がある空間だが、予想される黴臭さなどが少しも存在しないのは、常に稼働している除湿機のためだった。
古ぼけた備品が数多く並ぶ中、その機械だけがまだ真新しい。それでも、この除湿機があるからこそ、室内の湿度が一定に保たれているのも事実だ。
これは、唯が二年の終わりに、城咲を通して学校側へと導入を申請したものだった。決済が下りないと思われたそれは、彼女の予想に反して意外なほどあっさりと通ったことを、後になってから担任の大塚より、唯が夏の絵画展において佳作を受賞したことが、密かな後押しになったということを聞かされた。
加湿器を見る度に、大げさだが、もしかしたら今年はそれ以上の期待をされているのかもしれないと、無駄に考えてしまう。だからなのだろうか。城咲は、未だにこの加湿器の経緯を直接彼女に話したことは、一度たりともなかったのだ。
本棚の鍵を締めて、唯は興味深げに室内を見渡している少年に声をかけた。
「この段の本の殆どは、城咲先生が個人的に所持されてるものなんです。良かったら、今度貸して下さるか聞きますが……」
「本当に!? 是非お願い出来るかな?」
嬉しそうに彼が笑う。電燈の下で、益々その表情は儚く危うげなものとして、彼女の瞳に映った。
準備室から出た彼は、もう一度礼を言ってから、そのまま美術室へと歩みを進める。そして、扉に手をかけた瞬間、思い出したように口を開く。
「君、絵を描いてる時と、話してる時だと全然印象が違うね」
彼の言葉は、純粋な感想とも、一人で完結した疑問とも取れる意味合いを乗せていたが、そこには不思議と悪意の類は全く含まれていない。
だからこそ、唯はその一節に心を痛めることはなく、また答えを無言のまま返さずとも、相手へ不満を与えることもなかった。
最後に、ごくありふれた別れの言葉を告げて帰っていったその人の名前を、唯は結局最後まで思い出せないままだった。