
作品に取り掛かり始めてから、一先ず完成するまで、違和感を覚えながら筆を進めていたのは事実だった。
キャンバスへの筆の滑りも色の配色も、どれをとってみても、既に昨年の自分はそこにはいなかった。
その理由が全く分からないばかりか、描いても描いてもしっくりとこない。
筆に乗る絵の具の重さも、微細な指先の感触も、何もかもに自信が持てない。それでも、最後の仕上げに差し掛かる頃には、大分誤魔化すことが出来たその絵に、彼女は心底安堵を覚えながらも、更なる深いところではどうしようもない絶望感に浸ったのもまた事実で、目の前に佇む自分が、最早、無川唯であるのかも分からないまま、彼女はその筆を置いたのだ。
一見すれば、昨年の唯の絵と比較しても、何ら遜色のないように見えるその絵は、それでも遅かれ早かれ、誰かに指摘はされると彼女は覚悟していた。
「去年と大分違うみたいだけど、何かあったのかな?」
さすが、美術教師と言うべきか。
彼女の微細な変化も、彼の目にかかれば一目瞭然なのだろうか。この様子では、唯の絵が予選すら通るのすら怪しいと、彼女は城咲の目を見れないまま、思わず苦笑いを浮かべた。
「そうでしょうか? あんまり深く考えてませんでした」
彼女はそう言ってみせるが、城咲の様子も揺らぐ気配はない。彼は、少しばかりの微笑を浮かべただけで、唯へそれ以上の言及をしてくることはなかった。
「絵の方はまだ期限があるし、こっちの方は……無理に推薦に拘らなくても良いんじゃないかなって、僕個人としては思うよ。だけど、迷うなら、早急に結論を求めるのだけは決して勧めないよ。特に、君は若くて才能に満ち溢れているからこそ、時間をかけて行くべき道を選び取らなきゃならないんだから」
城咲はマグカップの中身を飲み干すと、白いプリントの紙面をもう片方の指先で確かめるようになぞった。
唯はその光景を眺めながら、冷えて底に凝り固まったココアを一息に喉奥へと注ぎ込む。ざらつき絡みつく甘い味に混じって、どこか苦みを帯びた何とも言えない味が、彼女の奥へと沈んでいく。
音もなくそれを飲み込んで、唯は伏せた瞳を開くと、真っ直ぐに城咲を見つめた。
「とりあえず、これは一旦、無川くんに返すよ。良いね?」
「はい……ありがとうございました」
彼の瞳は、美術室で彼女が対峙してから、一貫して変わらないままだった。
ただやんわりと、周囲の空気ごと包み込むように柔らかく、それでいて緩慢で。
「後悔のないように選びなさい」
僕みたいにねと最後に付け加えられた言葉すら、唯の耳に届く頃には、酷く曖昧なものだった。
相変わらず人気のない美術室を取り巻く時間は、制作に没頭する本人以外、客観的に眺める分には、酷くゆっくりと流れている。
城咲に提出予定の作品を返されてから、唯は幾度も絵に手を加えていた。
何度も塗り重ねられた絵の具の層が、キャンバスの表面に不規則な陰影を落としている。クレパスや水彩では、このような表現はまず出来ない。彼女はこれが油絵の面白いところの一つだと感じている点でもあった。
パレットの上に並んだ二色の絵の具をパレットナイフで切り混ぜれば、はじめは細く渦を巻いていたそれが、やがて徐々に色を変えていく。そうして練り上がった色をナイフに取り、キャンバスに既に収まっている色彩に馴染むかを確認するために、表面にふれないよう注意しながらそっと宛がう。悪くないと彼女は声にならない声を上げた。
ようやく筆を握り、出来たばかりの色をその先端に乗せた瞬間だった。
唐突に控えめなノックの音が響き渡った。彼女は手を止め、視線だけを扉へ向ける。
時間にしてはちょうど十六時を過ぎたあたりだった。
もう一度、同じ調子でノックが響き、筆を置いた唯がようやく腰を浮かせようとしたところで、先に木製の扉が軋む音を立てながらゆっくりと開く。
すぐに、一人の生徒がその先から顔を覗かせた。
「何かご用ですか?」
見覚えのないその生徒の姿に、唯は殊更に身構えて、視線だけではなく身体も扉へと向ける。
相手は、ひっそりと静まり返る室内に、僅かな驚きを孕んだ目で十分に室内を見回した後、ややあってから口を開いた。
「ここに、この人が解説した画集があるって聞いたんだけど」
そう言って、ゆっくりと歩み寄ってきたその生徒は、唯に向かって一枚の紙を差し出した。
訝しげに紙面を覗き込んだ彼女は、そこに記されていた内容を確認し、あぁと頷く。
「えぇ、このルノワールの画集なら確かにここにあります」