カレイドスコーピオ

インビジブル

07.思わぬ依頼 / 1

「白紙で出したんだって? 大塚先生が言ってたよ」

 穏やかな、それでいて決して相手を責め立てるような調子は微塵も含まない声が、彼女の頭上から降り注ぐ。
 は、この会話を始めてからいまだに相手の顔を見ることが出来ずに、目の前にある机へ、まるでしがみつくかの如く、一心に視線を落としていた。
 長年に渡って使い込まれている木製の机は、その所々が木目の間に入り込んでそのまま固まった絵の具や、彫刻刀などの刃物で付けられた小傷で彩られている。そのどれもが、数多の生徒たちの手によって付けられたものであり、中には明らかに悪戯に掘られた文字も目についた。
 ちょうどその悪戯に掘られた一つであろう、誰かのイニシャルと思われる小傷の上に置かれているのは、つい先ほどまで湯気を立てていた真っ白なマグカップだ。中身はまだ手が付けられておらず、なみなみと注がれた水面が僅かに揺れている。
 滑らかな陶器の余りに綺麗な色彩は、かえってこの情景の中で違和感を覚えさせた。
 彼女の視線はそのマグカップに縛られていた。別段、その違和感に惹かれて仕方がないというわけでもなかったのだが、かといって他に視線を留める場所もない。結局のところは、彷徨う心と共に、行き場もなく止むなくと言った理由で、そうしている他なかったのだ。

「僕が、どうこう言える立場ではないけど……」

 そう言って、目の前の男は一旦、言葉を切り上げた。
 声の印象や見た目からは二十代後半ぐらいに見えるその男は、一度吐息のような小さなため息を零し、それでも最初と変わらず穏やかな声で続ける。

「とても大切な時期では確かにあるね。だけど、まだ、君は十分に若いから、焦って無理に気持ちを固めなくても、問題はないと思うかな」

 かさり。そんな音を立てながら、男がマグカップの隣に新たな色彩を並べた。
 一瞬視線を向けた彼女が、それが自分の氏名だけが記入された用紙であることを認めると、思わず目を逸らした。

「大塚先生が渡しておいてくれって。“来週までに、ちゃんと記入して再提出しなさい”だって」

 僕じゃなくて、直接渡せば良いのにねと笑いながら続け、それから彼は、自分の白いマグカップに手を伸ばして口元に運んだ。
 こくりと微かにに嚥下する音が響く。既に彼のマグカップの中身は残りが少なくなっていた。
 どうぞと勧められるまま、彼女もマグカップをようやく手に取る。既に大分温くなってしまっていたが、彼女も倣うようにして口元に運んだ。
 舌に絡みつく甘いココアの味が口内の隅々まで一瞬にして広がり、今更ながらこの目の前の教師が、相当の甘党であったことを思い出した。

「城咲先生」
「ん?」

 言ってから押し黙った彼女を城咲は急かすことはなく、相変わらず嫌な顔の一つも見せずに、彼女の続きをじっと待っていた。
 彼はいつもそうだった。相手のペースに限りなく合わせてくれる。あくまで美術教師であり、どこかのクラスの担当教師でない彼だが、ひっそりと悩み相談をする生徒が多くいることを、彼女もまた良く知っていた。
 要は、城咲は誰よりも聞き上手なのだ。

「どうしたら良いか、自分でも良く分からないんです」
「色々ありそうだけど、一番に無川くんが迷っているのは、このまま立海の高等部へ進むか、それとも外部へ進むかってことかな?」

 言われては再び視線を落とす。城咲はうーんと考え込むように唸った。
 クラスの担当教師である大塚が、直接ではなく美術部の顧問でもある城咲を介して二者面談用の進路希望書を渡してきたあたり、余程自分は扱い難い生徒と彼に思われているのだろうかと、マグカップの水面にかろうじて浮かぶ自分の輪郭を見つめて、そんなことをは考えていた。

「城咲先生はどうだったんですか……その……」
無川くんがそういうこと聞いてくるのは珍しいな。まぁ、前も少し話したかも知れないけど、僕は一度、筆を投げてしまって、普通の大学へ進んでから、やっぱりどうしても諦めきれずに、大学を辞めて美大に入り直したからね」

 城咲は目を細めて微かに笑い、伏し目がちにしていると視線が絡まないのも構わずに、彼女を見つめながら続けた。

「だから無川くんを見ていると、昔の自分を思い出して、とても懐かしくなるよ。まぁ、昔と言っても、たかだか十五年前の話だけどね」

 彼の話を聞きながら、は以前に何かのきっかけで、城咲が二十歳で美大に進んだという話を聞いたことをふと思い出した。
 その記憶に間違いがなければ、城咲の今の年齢は三十五歳ということになる。この立海で、童顔という表現がこうもぴったりくる教師は、彼をおいて他にはいないだろう。

「……ところで。今年の絵のタッチなんだけど」

 声の調子はそのままで、不意に口にした城咲の言葉に、の肩は否応なくびくりと大きく揺れた。

2012/11/21 Up