
柳生の口から仁王の名が出た瞬間、柳生と唯はほぼ同時に仁王を見た。
これまでの柳生の話に大して動揺を見せない彼は、相変わらず微睡を孕んだ目をしていたが、すぐに首を横に静かに振る。
「俺が鏡の前に行ったのは、あの黒い靄が赤也を鏡に引きずり込んだ時だけじゃ。それは、俺じゃない」
否定しながら、仁王は何か考え込むように目を伏せる。
ぽつりと音にならない声が彼から漏れ、ゆるりと持ち上げられた瞼の奥にある彼の瞳が、柳生に話の続きを促した。
「そう、ですか……しかし、逆光で表情に陰りは見えましたが、あれは間違いなく仁王くんだったと思います。“こっちじゃ、柳生”と呼んでいたので、私は言われるまま階段を駆け上がりました。登り切る直前に彼が手を差し伸べて下さったので、咄嗟にその手を掴んだんですが、普段の仁王くんと同じように冷たかったのを覚えています。そうして踊り場に辿り着いたあと彼が鏡の方を指差したので、一体なんだろうかと覗き込んでみると、私の背後に立っているはずの仁王くんの姿がそこには映っていなかったんです。振り返ると、もう彼の姿はどこにもありませんでした。また、仁王くんの性質の悪い冗談だと私も思い込みたかったんでしょうね。落ち着こうともう一度鏡に向き直った時、鏡の中に映る私が……笑ったんです。そして、間髪入れずに伸びてきた鏡の中の自分自身の手に引きずり込まれました」
そこで、柳生は一旦話を切った。細く長いため息ともつかない息が、彼の口から零れる。
一瞬の間が空いたのち、柳生は唯に向き直ると、遠慮がちに尋ねた。
「無川さんは、どう言った経緯で鏡の中へ?」
「私は、柳生くんを見つけたあと、すぐに後を追いかけました。でも踊り場のところでやっぱり見失ってしまって、上の階と下の階、どっちに行くか迷ってたんです。でも、ただ何となく上を選んで階段を上ったらあの鏡を見かけて、立海七不思議のことを思い出し、つい覗き込んでみたんです。そうしたら私の姿が消えて、代わりに柳生くんの後姿が映ったんです。私もただただ驚いてその様子を見ていたら、後ろから押されたんです。あっという間のことだったんで、相手の顔は見れませんでしたが……冷たい手、でした。少なくとも、小さな子供の手ではなかったと思います」
いつの間にか、仁王は二人のやり取りをメモに控えており、それを二人にも見えるように机の上に置く。
これまでの話が時系列に纏められ記されていた。
「まだ、確証もないが、柳生の見た俺らしき人物と、無川を押した人物が生身の人間だったとしたら、そいつは“ジョーカー”じゃないかと思っとる」
「あの……仁王くんの仰る“ジョーカー”とは一体……?」
「影でこそこそ妙なことをやっとる立海の生徒の誰かじゃ。俺と無川はそいつを探しとる」
「仁王くん。やっぱりこの騒ぎは、生徒の誰かが起こしてると思っているんですか?」
ジョーカーが立海の関係者であるということは、これまでの経緯から唯も何となくは予想はしていたが、やたらと確信めいた調子で仁王が言うのが気になり、唯は思い切って尋ねてみた。
「あぁ、すまん。これも根拠はないんじゃ。立海の生徒と言うのも、まだ俺の主観に過ぎないからのう。とりあえず、校内の関係者というのは間違いないぜよ。もっと詳しく言えば、テニス部に何かしら関わりのある人物じゃ。一応真田の管理が行き届いとる部室に呪符を仕掛けられとったのが良い証拠ぜよ。外部の人間がわざわざ校内のしかも割と奥まった場所にある部室にわざわざ仕掛けるくらいなら、まだ一般にも観戦の開放がされとるテニスコートに仕込んだ方が建設的じゃ。レギュラーなら専用コートもあるからのう」
「呪符……ですか?」
仁王の話を反芻しながら自分なりに整理していた柳生だが、新たな聞き慣れない言葉に首を傾げた。それを見て仁王があぁと頷く、そして疑問符を浮かべている柳生の前にあの薄紙を一枚置いた。
「柳生も見たじゃろう。靄の動きを封じた時に使った奴ぜよ。これは結界と違って状況に応じて変化するようにこの紙の中に力を込めとるんじゃ。結界がその場に留まり、内陣と外陣の境界を護る守備的な作用をもたらすものに対して、呪符は静動を問わず、術者の意志を封入し解放することで、何らかの攻撃的な作用をもたらすものじゃ。柳生が部室で見つけたのは、厚みがあったらしいから、紙以外のもの、例えば木板や石なんかを使っとるとは思うがのう」
じっと呪符を見つめていた柳生に構うことなく、仁王はそれを拾い上げると再び仕舞いこんだ。
「とりあえず、時間も無くなってきとる。細かい考察は後日にするとして、最後に柳生が一緒にいた偽物の無川と、無川が自分の姿を奪われた経緯についてまとめるか。と、その前に……良い加減、入ってきんしゃい」
仁王が出入り口へと向かって声をかけた。
思わず唯と柳生が息を飲んでその方を見つめていると、僅かな沈黙ののち、扉がゆっくりと開かれる。
「き、切原くん!?」
揃って驚きの声を上げた二人に、切原は動揺を隠すようにへらりと笑って、頭を掻いた。