
「な、何してるんスか! 仁王先輩!」
「仁王くん!」
「良いから赤也も柳生も、黙って見てんしゃい!」
もう片方の手で、慌てて止めるべく伸ばされた切原の腕を振り払いながら仁王が声を荒げた。
添えられていた彼の手が唯の首から放されると、彼女の喉元には小さく畳まれた薄紙が張り付いており、仁王が指先でそれを剥がすように薄紙を持ち上げれば、その紙に誘引される形で、ずるりとあの黒い影が彼女の喉元から引きずり出されていく。
その様子を間近で見ることになった柳生は、思わず口元を抑えて小さく呻いた。
既に柳生が所持していた憑代は仁王の手に渡っていたが、少なからずまだ彼自身にその影響が残留しているのか、仁王の腕の中でもがくその姿をはっきりと見ることが出来ていた。
表情が一転した柳生に驚いて切原も目を凝らしたが、彼の瞳には何も映らない。切原は、ただ強く目を擦りながら何度も瞬きを繰り返すばかりだった。
そうして影の全てが彼女から剥がれた瞬間に、唯の身体が大きく揺らいだ。
崩れ落ちるように膝を地面につき、そのまま床に倒れ込みそうになる唯の身体を切原がすんでのところで抱き留める。
彼女は遂に気を失っていたが、震えは止まり、呼吸も落ち着いていた。
はぁと安心したように脱力し、唯ごと床に座り込んだ切原は、柳生の仁王を呼ぶ声にびくりと肩を揺らしてすぐに顔を上げた。
「お前が今回の騒ぎの犯人か。通りでさっきのやつから目ぼしいことが何も聞けんわけじゃ。しかもよりによって蛇とは悪趣味じゃのう」
のらりとそんなことを呟く仁王の腕には、影が幾重にも巻きついている。唯の時と同様に、先端はぱっくりと割れており、覗く牙は深々と腕に刺さっていた。
「に、仁王くん」
「ちょ、どうなってるんスか? 柳生先輩!」
「赤也。こいつは見えんことに越したことはないぜよ」
仁王はそう言って笑うが、彼の額には僅かに汗が浮かんでいた。
一見して空を掴んでいるようにしか見えない仁王の手の甲が、柳生以上にみるみる赤黒く腫れ上がっていくのを見た切原は、思わず言葉を失う。
ばちと爆ぜた音に合わせて、彼の腕の近くで青い火花がニ、三度散った。彼の口元が何かを紡ぎ、その度に火花が舞う。
彼が大きく腕を横に払うように薙いだ瞬間、影の形に沿って青い炎が燃え上がり、仁王の顔を、すぐそばの壁を青白く染め上げた。
その一連の光景は、言葉にし難いほど綺麗なものとして、切原の瞳に映っていた。
――寂しい。
落ちる刹那に感じたその感情に、揺り起こされるようにして唯はゆっくりと瞳を開いた。
真っ先に飛び込んできた天井は、少なくとも廊下のそれではない。
室内は驚くほどに暗かったが、身体を動かせば布ずれの音がやけに生々しく耳に残る。無事鏡から現実へ戻ってきたんだと、まだ根拠のない安心感を抱きながら彼女は浅く息をついた。
室内の照明は全て消えていたが、足元の方に置いてあるパーテーションの先から、確かな人の気配がする。
足元だけではない。残りの三方もカーテンやパーテーションで区切られており、見覚えがあった。ここは保健室かと納得してから、ゆっくりと記憶を遡ったところで、気を失う原因となった出来事を思い出して唯は飛び起きた。
その様子に気付いたのか、人の気配がある方から駆け寄る足音が聞こえてきたかと思うと、やがて控えめにカーテンが開けられ、癖毛の黒髪が波打つ布の隙間から覗いた。
「目、覚めたッスか?」
唯と目があった切原が、心配そうに目を細めた。
彼女は小さく頷いてベッドから起き上がろうとすれば、彼が制止する。
「もう、大丈夫です。あの、切原くんがあれからここまで運んでくれたんですか?」
「あ、まぁ……」
切原が歯切れ悪く答えると、頭を掻きながら彼は唯から目を逸らした。
「仁王先輩が来るまで、もう少し無川先輩は横になってて良いッスよ」
「ありがとう。でも、大丈夫です」
笑顔で返して今度こそ起き上がった唯を切原はそれ以上は止めず、会釈をするとカーテンの先へ消えた。
それから少ししてカーテンを開いた彼女は、切原が向かった先へ視線だけを向ける。
すっかり日が落ちて、色濃く影を落とす室内でソファーに座る切原と柳生の姿をすぐに見つけた。
照明を付けない理由は考えなくても分かる。教師や他の生徒たちの目につかないようにするためだろう。
やや前屈みになりながら携帯電話を操作していた切原と、かたや姿勢を正し、膝の上で絡めた指先を見下ろしていた柳生が、ほぼ同時に彼女の方へと視線を向けた。
唯も会釈をしながら彼らのすぐ近くまで寄り、おずおずと一人がけのソファーに腰を下ろす。
徐に立ち上がった柳生が、棚の方へ向かい、何やら作業をしたかと思えば、間もなく彼女の目の前にマグカップが置かれた。
彼の左手に真新しい包帯が巻かれていたことに気付いた唯は、思わず柳生を見る。彼は既にいつものように眼鏡をかけていたが、口元をふっと和らげて、何か言いたげに瞳を揺らす彼女に小声でどうぞと促した。
唯は少し迷ってから、ありがとうございますと答えてマグカップを手に取る。
じんわりと手の平に熱を帯びるそれを口元まで運ぶと、ふわりと紅茶の優しい香りが鼻腔を掠め、それだけで彼女はほんの少しだけ涙腺が潤みそうになった。