
どくん。どくん。
自分の生命が脈を打つ音が聞こえる。
そして、今まさに牙を突き立てんと鎌首を擡げているそれに対して、彼女は限りなく無防備だった。
異常なほどに熱く激しく脈打つ手首は、まるで自分の心臓が、本来あるべき場所からそこへ移動してしまったかのように錯覚させる。
そしてあの黒い影は、先端部分は彼女の手の中で握り込まれていた。そして、その先は手首を幾重にも絡み合いながら巻きついている。その姿は、まるでシュシュみたいだと唯は呑気にそんなことを考えていた。
無川と自分を呼ぶ声にはっとすれば、今まで見た中で一番険しい表情をした仁王が、影の上から覆うようにして、自身の両手を添えていた。
影が音もなく融解した。指の隙間からどろりと幾本の筋となって手の甲を這っていくそれらは、やがて紐状に枝分かれしたかと思うと、全ての先端が一斉にぱくりと割れ、食らいつくように彼女の手首や手の甲へと伸びていく。
その光景は、まさに獲物へと飛びかかる蛇の姿そのものだった。
噛み付かれるたび、全身を電流が流れるような衝撃が走る。必然と牙の先端から毒を流し込まれるイメージが彼女の頭には浮かんでいた。
ぐわんと彼女の耳の奥が鳴り、仁王たちの声や景色の輪郭が曖昧になっていく。
息つく暇もなく、噛み付いた場所に出来た隙間を通して、影は彼女の身体の中へと消えた。
仁王が忌々しげに舌を鳴らし、唯の腕を取ると、噛み傷を模した点在する痣を指でなぞり、再び舌打ちをした。
寂しい。
何故か、そんな感情が彼女の朦朧とした意識の中で、泡のように浮かんで弾けた。
――こっちを見て、深呼吸しんしゃい。そいつは絶対受け入れるな。俺を見ろ。
仁王の言葉に反応しているつもりだが、唯は実際に仁王の顔を見ることが出来なかった。
がたがたと自分の意識とは無関係に彼女の身体が震えている。寒さや痛みは既に感じなくなっていたが、耳鳴りは酷くなり、口からはひゅうひゅうという荒い息が漏れていて、上手く肺が酸素を取り込めていなかった。
それでも、やたらと客観的に自分の状況について考えるだけの思考は解けきらずに残っているのかと、彼女は不思議でたまらなかった。
「ゆっくり、そう、息を吸って、吐く。俺の目が見れんなら、こっちを見んしゃい」
ゆらりと揺らめいているのは、小さな蒼炎だ。
定まらなかった唯の視線が、吸い寄せられるように炎を捕らえる。黒い双眼の中に揺らめく青が増していくにつれ、彼女の荒々しかった呼吸が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。耳鳴りは、微かな地響きに似たものに変わっていた。
唯の震えが大分治まった頃を見計らって、仁王が彼女の顔を覗き込んだ。
彼の淡褐色の瞳と彼女の視線が絡んだ瞬間、彼が静かにそれでも力の籠もった口調で話し始めた。
「無川、良く聞くんじゃ。今お前さんの中に入ったやつは、少し性質が悪い。良いか、それは今、無川の身体の中を巡って、お前に付け入る隙間を探しとる。だから、無川はとにかく拒め。声が出せそうなら言葉にして拒むんじゃ。少しでも外に出たら、俺がそれを引きずり出してやる」
聞こえたら握れと彼が言うのと同時に、仁王の手が唯の手を包み込む。彼の冷たい手の感触が唯の指先へと伝わりじわじわと這い上がっていけば、心地良さと一匙の悲壮感を混ぜた感情が、彼女の中へ注がれていく。
唯の手がぴくりと反応を示したのを感じ、仁王が小さく頷く。
彼女が意識して大きく息を吐き出せば、胃の辺りがずんと重くなった。続いて、低く唸り続けていた地鳴りの代わりにずるりという不快な音が響き渡った。それが自身の体内に潜り込んだ影から発せられる音なのだと理解すると、途方もない恐怖が襲ってくる。
自分の意志とは異なる何かが、体内で這いずり回っている。そして、それは明確な意思をもって無川唯という存在を飲み込もうとしているのだ。
ひゅうと唯の喉が恐怖に喘いだ。必死に絞り出そうとしても、言葉の破片すら出てこない。
思わず泳いだ彼女の瞳が、仁王の隣で不安げな表情を浮かべている切原と柳生の姿を見つける。
彼らの口元が、言葉を紡いでいる。その内容は全く分からないが、自分に向けられている励ましの類であるのは間違いないだろう。
不思議と、冷たいばかりだった身体の奥底がじわりと熱を帯び、そこに沈んだままの言葉が、呼応して目に見えるものとして形成されていくのを感じた。
やがて、出来上がった言葉が、まるで呼吸をするかのように彼女から放たれる。
――わたしから、でていって。
殆どが呼吸に掻き消され、聞き取れないほどの微細な声が風に乗った。
「良くやった。無川」
すかさず仁王の右手が彼女の首を捕らえる。
固唾を飲んで見守るしか出来なかった切原と柳生が、思ってもみない仁王の行動に揃って抗議の声を上げた。
彼の手は唯の首を絞めるように添えられ、その指先は浅く彼女の肌に食い込んでいる。
当然ながら、彼女は苦痛に眉根を寄せ、激しく一度咳込んだ。