
誰もが口を開かず、これまでとはまた違った意味で重い空気が流れる中、仁王は握り締めたままの手の平をゆっくりと開いた。
手の内に残ったものを確かめると、それを無造作に制服のポケットへと押し込み唯へと視線を向ける。
直後にぴくりと肩を震わせた切原を仁王は見逃さなかったが、そのことに特別何かを指摘する訳でもなく、彼は彼女に普段と変わりない調子で声をかけた。
「無川。声はちゃんと出るか?」
「はい。もう大丈夫です……その……」
「その話ならあとじゃ。まずはここから出るのが先ぜよ」
唯の言葉を強引に断ち切って、彼は一人足早に鏡へと向かう。
鏡の向こう側では、国舘が未だに不安げな顔を浮かべており、仁王と目が合うと、彼に向けて何かを話しかけて来たが、やはり国舘の声は彼らに届いていなかった。
鏡に添えられた彼の両拳は、強く握り締められていたためか、すっかり白くなっている。
(鏡がまだ解けていない? まぁ、これくらいなら問題ないじゃろう)
仁王は心中で呟いて、ひたりと鏡に手を押し当てた。
国舘が、切原と同じような瞳で仁王と視線を交わしたのち、鏡からゆっくりと身体を引いた。
「仁王くん。どういうことなのか、きちんと説明していただけないでしょうか?」
ようやく冷静さを取り戻した柳生の静かな声が響く。
一旦、手を止めた仁王が、彼の方へと向き直れば、僅かに疲労の色を滲ませた柳生が、それでも真っ直ぐに仁王を見つめていた。
眼鏡を失ってしまったがために焦点が合わせにくいのか、時折彼の眉間に僅かに皺が寄る。
「あぁ、全部話してやるぜよ。が、ここでは駄目じゃ」
「仁王くん! 貴方はいつもそうやって」
「小言もあとじゃ! 本当にお前さんは細かいのう……柳生?」
唐突に柳生の視線が自分をすり抜けた背後に向けられたことに気付いた仁王が、つられるように振り返った。
そうして、彼が視線を泳がせたであろう天井を見上げる。
しかし、ほの暗い天井には何者の気配もなく、仁王が再び視線を柳生へと戻せば、彼は目頭を軽く抑えかぶりを振った。
「どうしたんじゃ? 柳生」
「いえ、一瞬何かがそこで動いたような気がしたんですが、見間違いだったようです。確かに仁王くんの言う通りですね。私も眼鏡がないと不自由ですし、仁王くんが鏡を出る方法をご存じなら、仰る通り、まずはここを出るのが先決でしょう」
もう一度天井を仰ぎ見た柳生は、やはり自嘲気味に首を振って視線を剥がした。
二人のやり取りを眺めていた切原も天井をじっと見つめていたが、すぐに興味をなくしたのか、立ち上がろうとする唯に声をかける。
「歩けるッスか?」
「はい。大丈夫です。こんなに全力で走ったの久しぶりだから、そういう意味ではきついですけど」
そう言って笑ってみせれば、切原も安心したように表情を緩めた。
立ち上がった瞬間にぐらりと彼女の身体が揺らぐ。膝が軽くぴくぴくと筋に沿って痙攣しており、結局はそれが治まるまで切原の腕を借りることになった。
彼女が仁王の様子を伺えば、彼は鏡と対峙しながら、柳生と何やら話し込んでいる。
(……?)
唯の視界の端で何かが動いた気がした。
反射的に天井を見上げるが、そこにはやはり異変はなく、変わり映えのしない薄暗い天井がただ広がるばかりだった。
「無川先輩まで、どうしたんスか?」
切原もわざわざ唯の頭の位置まで姿勢を低くして、彼女の視線の先を追う。
唯は慌てて首を大きく振った。
「ううん。何でも。ずっと薄暗いところにいたから、少し目が疲れたのかもしれないです」
立て続けにおかしいことが続いているから無理もないと、彼女は周囲の気配を確認した。
黒い靄が消えた瞬間から、あの独特のぬめった纏わりつく空気は嘘のようになくなっており、勿論霊の姿もない。
そして何より、この中で一番そういった類のものに敏感であるはずの仁王が何も言わないのだ。いい加減、疑心暗鬼になるのも考えものだと思いながら、それでもどこか天井を気にしている自分に、唯は若干の居心地の悪さを感じていた。
仁王が唯たちを呼んでいる。見れば、彼の腕が鏡をすり抜けており、どうやら通れるようになったらしい。
そのまま彼女が足を一歩踏み出した時だった。
「無川先輩」
唐突にぐいと切原が唯の強く腕を引いた。
弾みで危うく彼女は転倒しそうになるが、慌てた切原が崩れそうな身体を支える。
「あ、いや。ス、スンマセン。なんかすげぇ気になって……」
そう言って、切原が恐々と天井を仰いだ。やっぱ何もないけどと小さく彼が呟く。
唯も三度それに続いた時、今度こそ違和感を抱かせた“それ”の姿を捕らえると同時に彼女は叫んでいた。