
「え、こっちが無川先輩!?」
唖然とその様子を見ていた切原は、ずるずるとそのまま階段の手すりに凭れるようにして崩れ落ちた彼女に慌てて駆け寄った。
仁王は切原に唯を任せ、今や不規則に揺らめきながら壁沿いに逃げ惑う黒い靄を睨みつけたままだった。
「中々面白いことをしてくれたのう。さて、お前さんにこんな入れ知恵をした奴について吐いてもらうぜよ」
「に、仁王くん。それは……?」
素早く薄紙を手に取った仁王の姿に戸惑いを隠せない様子で柳生が声をかけるが、仁王は一目しただけで視線を戻すと薄紙を眼前に翳して二言三言何かを呟いた。
くたりと彼の指に沿ってしな垂れていた薄紙が、仁王の言葉に呼応するようにぴんと張りを持つ。
「仁王くん……止めて。何で、何で……」
靄が仁王から距離を取るべくするすると壁を上部の方へ向かって動き出す。そこから聞こえてくる声は、紛れもなく切原も柳生も知る唯の声そのものだった。
切原は、思わず抱きかかえるようにして身体を支えている彼女の顔を覗き込む。
力無く四肢を投げ出している唯の顔色は、一見して具合が悪そうに白蝋じみていた。
乱れた彼女の前髪を切原が払いのけたところで、唐突にうっすらと開かれた彼女と彼の目が合った。弱々しげに揺れるその色に切原が労りの言葉をかけたが、彼女はやはり力なく口を僅かに動かしただけだった。
切原が聞き返そうとするが、唯は同じ動作を繰り返すばかりで、まるで擦り切れた声帯を必死に震わせて声を絞り出そうとするその仕草に、彼もそれ以上言及するのを一旦止めた。
一方の仁王は、悲痛な悲鳴を上げ続ける靄に対して一切の興味を無くしたような冷たい視線を向けていたが、やがて狙いを定めると、靄へ向かって薄紙を放った。
紙とは思えない速度を伴って一直線に飛んで行ったそれは、たんという小気味良い音を立てて、靄を壁に縫い止める。
「痛い、痛い、止めて、仁王くん!」
「早く声もあいつに返しんしゃい。お前さんにその無川の声は手に余るじゃろ」
更に続けて仁王が薄紙を放てば、逃げまどっていた靄は、さながら標本のように壁に張り付き、完全にその動きを封じられた。
「お願い。におう、くん……い、嫌、嫌、い、やだ! あ゛あ゛あ゛ぁ゛ァ゛ァ゛!!」
絶叫を上げる唯の声が段々と掠れていく。
やがて女とも男ともつかない、しわがれた声に変わり始めたところで、切原と柳生が同時に顔を顰めた。
「……っ! この、声は……?」
「うわ、何だこれ、耳、痛ぇ!」
脳内を爪で無造作に引っ掻き回されているような痛みを伴う不快感に切原は呻く。柳生も同様に苦痛を感じているのか、こめかみに手の平を押し付けて俯いていた。
ぐいと制服の裾を軽く引かれた感触に、表情を歪めたまま切原がそちらを見れば、先程よりも赤みが戻ったものの未だ弱々しく瞳を揺らす唯がいた。
「切原くんは、耳を……塞いで、いた方が良いです」
切れ切れにやっと聞き取れるくらいの声量で呟いて、彼女は耳を塞ぐ仕草をする。
促されるまま強く両耳を手でぴったりと覆った切原は、その瞬間にまるで何事も無かったかのように痛みが和らぐのを感じて、堪らず息を大きくついた。
それでも油断して力を緩めてしまうと、再びそれは襲い来る。彼は慌てて手の平を強く耳に押し付けた。
だが、唯が耳を覆う様子はない。まだ目を開けているのが億劫と言わんばかりに、ゆっくりと瞬きを繰り返していた。
切原は一旦手の力を緩める。すぐに痛みを伴う不快感が襲ってきたが、構わず唯の両手を掴み、彼の手も添えるようにして彼女の耳へと押し当てる。
それに気付いた唯は、ゆるゆると首を振った。
「私は、聞こえるから大丈夫です。切原くんは、ちゃんと塞いでて」
「無川の言う通りじゃ。赤也も柳生も耳を塞いどった方が良いぜよ。こいつの悪足掻きにあてられる」
静かな仁王の言葉が重ねられる。
切原が彼の方を見れば、未だにその視線は靄から逸らされることなく、一心に注がれていた。
だが、その表情は唯と同様に痛みに歪んではいない。
再び襲った苦痛に切原が呻けば、唯によってやんわりと彼女に添えられた彼の手が離された。結局、切原は行き先を失った両手を再び自らの耳へ戻すしかなかった。
「仁王くん……どうして」
小さく呟かれた彼女のその問いは、仁王はおろか今の切原にすら届かない。
ようやく自分の全てを取り戻した唯が、切原の身体を支えにゆっくりと起き上がる。
そうしている間にも仁王は、既に次の工程に取り掛かっていた。
「あれ……何だ……火? っ!」
切原が驚きの声を上げた瞬間に靄から上がる悲鳴も強くなった。切原の眉間に皺が寄る。
もう終わりが近いと、そのことに安堵しながらも唯は仁王の考えを測り兼ねていた。
ひゅんと空を切る音を携えて、一つの青い炎が、彼の周囲を旋回している。
そうして仁王の腕が、靄へと向かって伸ばされれば、それに倣って速度を上げた炎が飛んでいく。
炎が靄に触れた瞬間、舐め上がるようにして青い炎は靄の表面を駆け上がった。そうして切原たちが口を開くよりも先に靄ごと激しく燃え上がった。
最後の呪詛を交えた悲鳴は、さすがの唯も耳を覆った。終始耳を塞いでいた切原たちにとっては、尚更不快な音として聞こえているのだろう。
今や炎は、天井に届きそうなほどまでに勢いを増していたが、それとは比例して、靄の悲鳴は小さくなっていく。
すぐ側まで歩み寄った仁王だけが、この中で平然としている。苦痛に顔を歪めながらも切原が、小さく仁王先輩と口を動かしたのをマユは見た。確かにそれは、戸惑いだけではなく恐れをも孕んだ声だった。
仁王は炎の様子になど意に介さず、乱暴にその中へと手を差し入れる。
ぱっと一瞬光が強く燃え上がったかと思うと、まるで打ち上げ花火の散り際のようにちりちりとした光の粉を降らせながら炎が四散した。
「……何なんだよ。これ」
仁王によって唐突に訪れた終わりは、再び静寂をこの場所へと呼び戻した。
既に両耳から手を離していた切原は、呆然とした声でそう呟いて、残光の破片を浴びてもなお、微動だにしない仁王の姿を見つめていた。