
淡々と言い放たれた彼女の声と共に、切原の腕が今度は反対に鏡側へと強く引き込まれる。
否応なく切原は体勢を崩し、その身体は急速に鏡に沈んでいった。
異変に気付いた国舘が慌てて切原の腕を引き戻そうとするが、びくともしないどころか、一緒になって引き摺られていく。
鏡の先で薄笑いを浮かべる唯の姿を見た瞬間に、国舘はこのままではまずいと切原の腰を抱きかかえるように掴み直し、両足に力を込めた。
「鏡を開けてくれてありがとう。もうちょっとで全部上手くいったけど、ここまで開けばあとは何とかなるわ」
うっとりとした声で囁き、嬉しそうに笑う唯の顔と切原との距離は殆どない。
切原は金縛りにでもあったかのように、身じろぎすら出来ないまま彼女の目をただ見返していた。
ひゅうと声にならない声が、切原の口から漏れる度に、くすくすと唯は笑い声を上げる。
そうしている間にも、二人の身体は彼女によって鏡へ確実に引き込まれていった。
「無川さん! 一体何を……!」
柳生が唯と切原の間に無理矢理割って入ろうと腕を伸ばしたが、頭だけをぐりと動かして彼の方を見た唯と目が合うと、切原と同様にぎくりと身体を強張らせる。
「駄目ですよ。大人しくしててね。柳生くん」
「無川、さ……ん……ど、うし……」
彼女の放つ言葉に縛られ、柳生の伸ばした腕が力無くだらりと垂れる。それだけではない。彼の身体は、そのまま糸の切れた操り人形のように床に崩れ落ちた。
その瞳は驚きに見開かれていたが、口から漏れる声は掠れ、最後の方には音にすらならずに空気へと溶けていった。
なおも唯は腕の力を緩めず、気付けば切原の肩口までが既に鏡へと飲み込まれていた。
国舘は必死に抵抗していたが、このままではとうに先は見えている。
じりじりと引きずられる身体を地面へと力の限り縫い止めながら、どうにかしなければと頭を回転させていると、不意に階下の方から新たな声が響いた。
「国舘、どきんしゃい」
階段を駆け上がってきた仁王が、言うなり国舘の身体を押しのけ、彼は思わず腕の力を緩めた。
いよいよ支えを無くした切原の身体は、勢い良く唯に引きずり込まれ鏡の先に消えていく。
国舘が抗議の声を上げるよりも先に、後を追うようにして仁王も鏡の中へと自ら飛び込んでいった。
「痛って!!」
勢いのまま踊り場に転げ落ちた形になった切原は、身体を襲った衝撃に堪らず呻き声を上げた。
それでもすぐに起き上がった彼は、目の前に広がる陰惨とした空気に一瞬呆然としたように周囲を見回していた。
すぐに床に力無く座り込む柳生の姿を見つけ、駆け寄ろうとするが、彼は大丈夫ですと思いのほかしっかりとした声でそれを制する。
切原が今更ながら気付いたように、慌てて今しがた潜り抜けた鏡を振り返れば、鏡面に両手を添えて何やら叫んでいる国舘の姿があった。
それを見て、鏡が抜けられなくなっているという状況も当然ながら、同時に視界に入った仁王がどうにも落ち着いた雰囲気を崩さないまま、切原ではなくその先にいる唯へと視線を向けていることにも驚いていた。
「少し悪ふざけが過ぎるのう」
いつの間にか、彼女は少し離れた上階へ続く階段側に移動していた。
仁王は口を開きながら、いまだ僅かならがも呆然としている柳生と切原の前に立ちはだかるように歩を進める。
「な、何で仁王先輩がここに。それに無川先輩、一体どうしちまったんだよ……」
忙しなく仁王と唯を見比べている切原をちらりと一瞥した仁王は、そんな彼の様子にいつものような含み笑いを見せたが、唯へと向き直った時には、一転して険しい表情へと変わっていた。
「赤也たちには、こいつが無川に見えとるみたいじゃのう」
「は? 仁王先輩、何言ってんスか? あ、あれ!」
仁王の肩越しに切原が慌てた様子で階段を指差した。
ゆっくりとした動きであの黒い靄が、丁度階段を登り切ったところだった。
切原と、ようやく身体の感覚が戻ってきた柳生が、警戒するように身構える。
「これでやっと全員揃ったのう。とりあえず、先に無川を返してもらうぜよ」
そう言って、仁王が制服のポケットから手の平に収まるほどの小さな折り畳み式の鏡を取り出した。
その様子を見た瞬間に、唯が慌てて逃げるように上階へと続く階段を駆け上がる。
「器に無川を選んだのは褒めてやる。が、ここまでじゃ。逃がさんぜよ」
「嫌よ! この日が来るまで、ずっと我慢してたんだもの」
仁王が叫びながら逃げる唯へ向かって鏡を翳す。
階段に辿り着いて以来、動きを止めた靄と唯、二つの姿がその小さな枠の中に映り込んでいた。
「あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ァァ!!」
階段を数段上がったところで、唯が仰け反りながらおおよそ普段の彼女からは予想のつかないほどの甲高い声を上げる。
そのままバランスを崩した彼女の身体は、空を掻き背中からあえなく地面へと叩きつけられた。
「無川さん!」
「無川先輩!」
柳生と切原の声が重なり、切原が慌てて唯に向かって駆け出せば、その身体を仁王が引き留める。
「仁王先輩、何してるんスか! 無川先輩が……」
「……良く見てみんしゃい。あれを」
仰向けに倒れている唯はぴくりとも動かない。床に無造作に広がった髪が彼女の表情を覆い隠している。
そんな彼女を仁王は眉一つ動かさずにじっと見つめていた。
彼に倣って切原もしばらく様子を見ていたが、何も変化がない状況に疑問の声を上げようとした時だった。
ぽろぽろとまるで風化した塗装が剥がれ落ちるかの如く、倒れたままの唯の身体の表面が音もなく崩れていく。
切原は驚いて小さな呻き声を上げたが、隣にいる仁王は変わらず何もかもを見透かしたような表情のままだった。
そうしている間にも彼女は徐々に剥離し色を失っていく。やがて全ての色が朽ちた頃には、彼女のその姿はかろうじて人の形を保ってはいたが、階段を今しがた這い上がってきた靄と遜色ないものへと変貌を遂げた。
一方、相変わらず先程の場所から動くことなく、ただ揺らめいていた靄の方は、唯の姿が変化するのと比例して、人型に形を成していったかと思うと、やがて黒い靄はゆっくりと溶けるように晴れていった。
こうした変化が落ち着き、靄の中から姿を現したのは、先程崩れ去ったばかりの唯その人だった。