
唯は鏡に映った切原の姿を確かめるように手を伸ばした。
すぐに堅い鏡の表面が指先に触れ、その瞬間に彼女の表情が悲しげに歪む。
「無川さん。あの黒い靄がもう近くまで来てます」
「ど、どうしよう……」
柳生の言う通り、階段の方へ視線を向ければ、廊下を無我夢中で走っている時には気付かなかったが、微かに足音らしき音が、階上に向かって近づいてくる。
ゆっくりと迫りくる靄の気配に、二人の焦りは否応なく募っていく。
唯が、今はまるで硝子越しに切原と対面しているように感じる鏡面を両手で小さく叩けば、みしりと軋んだ音が響いた。
びっくりして彼女は思わず手を放す。表面に幾本も走る亀裂の内のどれかが衝撃に悲鳴を上げたらしい。
万が一にでもこの鏡が割れようものなら、もう二度と切原のいる向こう側へ戻ることが出来ないだろうという確信が唯にも柳生にもあった。
「ちょ、どうしたら良いんだよ……っ」
鏡越しに見ていた切原には鏡の軋む音は聞こえなかったらしい。彼は唯たちの様子を見て焦ったようにくしゃりと髪を混ぜた。
「こっから二人ともこっちに戻れるんじゃねーのかよ……って、うわ!?」
堪らず切原も唯が先程したように鏡に右の手の平を押し付けた。
だが、彼の予想に反してその右腕は、そのまま鏡の中へずぶりと沈んでいったのだ。
危うく崩しかけた体勢を国舘が慌てて支え、切原はかろうじて鏡に倒れ込まずに済んだが、彼は一旦引き抜いた右手と鏡とを信じられないものでも見るような瞳で交互に見比べていた。
「今、俺の腕が、鏡を抜け、た?」
「も、もしかして、鏡の中からは抜け出せないけど、外から入るのは出来るんじゃないでしょうか」
唯の言葉を聞いて、切原は閃いたように再び鏡の中へと迷うことなく腕を差し入れた。
「多分無川先輩の言う通りみたいッス。俺がこっちに引っ張りますから掴まって下さい!」
言うが早いか、切原は唯の右手を掴むと躊躇いなく引き寄せた。そうして彼女の指先が鏡を通り抜けたのを見て、切原がよしと声を上げる。
これなら上手くいくと更に腕を引いたところで、ふと襲われた違和感に、彼はあれと小さく漏らして首を捻った。
「切原くん! そのまま無川さんをそちら側へ! もう時間がありません!」
柳生の声に押されるように、切原は一瞬止めたその腕に力を込める。唯の腕は順調に肘の辺りまで鏡の外側へと引き出されていた。
(……何だ?)
再び牙を立てた違和感に、切原は唯を見る。
彼女の表情は、極度の緊張状態の影響からか、ほの白くなり眉は不安げに寄せられていた。ずっと走っていたせいか、髪も僅かに乱れており、幾本かの髪の毛が頬に張り付いている。
そのまま、なぞるように彼は視線を下げていく。
切原が掴んでいる方と反対の手は、柳生の腕へと伸びしっかりと繋がれている。きっと柳生の性格上、彼女をこうしてリードしてきたのだろうと切原は一瞬で結論付けた。
やがて彼の視線は、唯の制服から足先まで辿り着いた。
そこまで一通り確認したところでようやく浮かび上がった微小な疑問は、ごく自然に切原の口をついて出た。
「無川先輩。あの水色のやつ、どうしたんスか?」
あのこっくりさんの後、切原は声をかけられずとも幾度か彼女の姿を見かける機会があったのだが、その時の彼女はいつも水色のシュシュを髪や腕などどこかしらに身に着けていた。
そして彼女の癖なのか、そのシュシュを縋るように握り締める仕草が切原の印象に残っており、何故かこんな時にそのことを急に思い出したのだ。
「き、切原くん! 早く! もうすぐ後ろに来てる!!」
唯の悲鳴に近い叫びに、切原は慌てて腕を大きく引けば、唯の頭が鏡から潜り抜ける。国舘がもう少しと嬉しそうに叫んだ。
切原は、左腕も鏡の中に差し入れて、彼女の身体を支えようとした。
次の瞬間、自分でも理由が分からないまま、ぎくりと彼の身体が強張った。
そしてこの場にはそぐわない光景が切原の頭の中に広がっていく。
まず、最初に再現されたのは、本日受けた授業で朗読するように淡々と説明した教師の言葉だった。五時限目ということもあり、眠気に襲われながら授業を受けていたので、内容の殆どは聞き流していたが、配られたプリントに印刷されていた写真が、その微睡の中で偶然にも彼の目に留まっていたのだ。
切原の視線が、再び唯の制服に移動する。第二の違和感は、そこにあった。
「無川先輩。何で、そのスカート……」
確か被服の授業の出来事だと、切原は更に反芻するように思い出す。
プリントに書かれていたのは、被服のそれも立海の制服の歴史に関する内容だったはずだ。
立海の女子制服についての解説では、下は巻スカート状になっていて、端は着用した時に右サイドの位置で留める形になっていた。
それを見た国舘が、これってボタン取れたら悲惨じゃねと、くだらないながらもいかにも中学生らしいことを言っていたことも彼の頭を掠めていく。
もし、彼女が付属のネクタイも着用していたら、もっと早い段階でこの小さな変化に早く気が付いたのだろう。
今の唯のスカートは、切原から見て右サイドで留められている。唯から見たら左側で巻き留まっているのだ。
この制服はまるで“鏡に映した”ように逆転しているのではないか。
切原自身は何となく口をついて転がり出た疑問の言葉だったが、彼がすぐ近くにまで近づいていた唯の顔を見ると、彼女の表情は先程と一変して無表情になっていた。
「……っ!?」
ぎりと切原の手が強く握られる。そのあまりの強さに、切原は何が起きたのか分からず目を見開いた。
目の前の唯は、瞬きすらせず未だに無表情のまま切原を見つめていたが、彼の瞳に動揺の色が宿ると、その唇をにぃと吊り上げて楽しそうに口を開いた。
「こういう時だけ、やけに鋭い人って、大嫌い」