
「無川先輩! 大丈夫ッスか。びっくりした。急に……」
「柳生くんが目を覚ましました。今から、二人でそっちに行きます」
焦ったような唯の声と慌ただしく走る足音が携帯電話の先から響く。
緊迫したその様子に切原は国舘に目配せをした。
「な、何があったんスか!?」
「すみませんっ! とにかく鏡の近くに着いたら声かけます!」
ざざざというノイズが走る中、唯の声は遠くなり、あとは途切れ途切れに声や物音が聞こえるばかりだった。
その様子から、二人は何かから逃げていると感じ取った切原は、目の前の鏡を睨みつける。だが、当然ながら、鏡は涼しげにあるがままの光景を映し取るだけで変化はない。
今、こうして携帯電話越しでしか二人の様子を知ることが出来ない状況に、彼は強く唇を噛み締めただ見守るだけの自分に歯痒さを感じていた。
「無川さん。こ、これは一体……?」
困惑の表情を浮かべた柳生を先導して唯が走っている。
彼女の手は柳生の腕に伸ばされ、しっかりと握られていた。
唯が振り返れば、事態を飲み込めずおろおろとしている柳生と、酷く焦ったような彼女の瞳が合う。
そのまま彼女の視線が柳生の背後に流れると、その瞳が見開かれた。
「柳生くん! 後ろから追ってきてる。私から、絶対に離れないで下さい」
そして再び唯が柳生の腕を引く。
彼女が、一体何を見ているのかと、彼も気になって振り返った。
今二人が飛び出してきた教室から、見覚えのある黒い靄のようなものがゆっくりと溢れ出てきていた。
その正体を掴もうと目を凝らすが、まるで上手くピントが合わないカメラを覗いたように焦点が定まらない。
すっと中指で眼鏡を上げる仕草をした彼は、そこでようやく気を失う前に眼鏡を割ってしまったことを思い出した。
「あ、あれは、部室からずっと私を追いかけてきていた……」
「……あれに捕まったら、取り返しがつかなくなります。早く鏡まで逃げましょう。切原くんたちが待っていてくれてます」
言うなり、彼女が走る速度を上げ、柳生はあやうくバランスを崩しかけた。
彼が前に視線を戻す寸前に、視界の隅で捕らえたのは、やはり緩慢とした動きで二人に向かって動き出す靄の姿だった。
「貴女は……一体……?」
唯に手を引かれたまま、柳生は先程と同じような言葉を繰り返す。
ただし、前者は今自分が置かれている状況についての疑問、後者には唯に対しての疑問という大きな違いがあった。
「今は逃げるのが先です。話は後で!」
もう一度振り返った唯は、今度は柳生を見ずにその背後から追ってくるものに対して鋭い視線を向けた。
柳生は頷き、いよいよ踏み込む足に力を込める。ぐんと彼の身体が大きく前傾に揺らげば、あっという間に唯を抜き去ると、今度は逆に彼女の手を引く形となる。
視界は晴れなくとも、さすがに基礎体力において、柳生は唯の比ではない。
それでも二人とも汗だくになりながら廊下を走り抜けた頃には、靄とは大分距離を取ることに成功した。
そこまで長い距離ではなく、特に柳生に至っては普段から鍛えているのにも関わらず、本人も思った以上に息が上がっていたが、それはこの廊下に漂う異常なほどに淀んだ空気の影響もが大いにあるのだろう。
「本当に鏡から戻れるんでしょうか……」
額に浮かぶ汗を手で拭った柳生が、上階に続く階段を見上げながら独り言のように呟いた。
「分かりません。でも、ここに来たきっかけになったのが、柳生くんも私もあの鏡です。だから、きっと……」
同様に階段の先を見据えた唯は、しっかりとした口調で答えた。
柳生が再び振り返ると、大分後ろの方に靄が見える。暗闇の中であってもその存在感を示すその姿は、唯の言う通り触れたらここよりもずっと暗い場所へ引きずり込まれてしまいそうな危機感を覚えさせる。
いずれにせよ、ここに留まっているメリットは全くない。
二人は顔を見合わせると、揃って階段を駆け上がった。
「大丈夫ですか? 無川さん」
肩で大きく息をしている唯を心配げに見つめてから、柳生は階下の気配を探った。
感覚に頼った限りの情報だが、靄はまだ階段にすら辿り着いていないようだった。
いまだに呼吸が整わない唯は、肺の辺りを抑えて苦しげに深呼吸を繰り返していたが、柳生に視線だけで大丈夫と伝えると強い眼差しで前方を見る。
それでも大分疲弊した彼女の身体を柳生が支えながら例の鏡の前に揃って立ってはみたが、冷たい鏡面に映るのは、やけに白々しく強張った表情を浮かべる二人の顔だった。
試しに柳生が鏡に触れてみるが、特に目立った変化もなく、彼は困惑しきった表情で唯を見る。
彼女は落とさないように制服のポケットにしまっていた携帯電話を取り出して、一度大きく深呼吸してから声をかけた。
「切原くん。鏡の前に着きました」
「無川先輩! ホントに良かった。柳生先輩も大丈夫ッスか?」
「えぇ、無川さんのおかげで何とか……ただ、こちらの鏡には特別変化がありません。切原くんの方はいかがでしょうか?」
「いや、全然……って、何だこれ!? 鏡が!」
驚きの声が混じった切原の声に、唯も柳生も思わず目の前の鏡を見た。すると、二人の見ている前で、鏡に映った自分たちの像が水に溶けるように掻き消えていく。
そうして、次に浮かび上がってきたのは、携帯電話を耳に押し当てた切原の姿だった。
「柳生先輩! 無川先輩!」
驚いた表情を浮かべる柳生と唯を鏡越しに見つめている切原の目が、今にも泣き出しそうに大きく揺れた。