
あからさまな誘いであるのは明白だったが、唯は迷わず扉に向かうと隙間から教室の中の様子を伺った。
そこには、何故か机や椅子の類が一つも置かれておらず、ただがらんとした殺風景な光景が広がっている。
隙間から彷徨っていた彼女の視線が、床に倒れている人影を捕らえると、彼女は無我夢中で教室内に飛び込んだ。
「柳生くん!」
唯の叫びにも、伏したその人物は全く反応しない。
窓から差し込む白光が、立海の制服に身を包んだその人を淡く照らしていた。
彼女は柳生のすぐ近くまで寄っていくと、跪くようにして彼の顔を覗き込む。
柳生は普段からかけている眼鏡を外しており、その瞳はじっと堅く閉じられていた。
そのあまりにも白蝋とした表情に唯は息を飲んだ。だが、彼の胸が浅く上下していることを確認し安堵の息をつくと、改めて柳生の様子を確認する。
唯は彼と図書室で初めて会ってから、二度目は仁王として彼と接触している。確かに髪色や髪型が異なっているものの、相貌は仁王と見間違えるほどに似ており、これに声まで似ているとなれば、変装次第で十分騙されてしまうだろう。
じっと彼を見つめていると、彼の身体はぼんやりとした光が纏う。仁王の青色とは異なる暗色ががった緑色だった。彼の言う通り、しっかりと視れば、こんなにも簡単に分かるのかと彼女はため息を一つ零して視線を外した。
教室内の空気は、廊下に比べるとずっと清浄なものに感じられた。
もしかしたら単純に鼻が利かなくなってきているのかもしれないが、それでも肌を舐め上がる空気が、今はさらりと撫でるようなものに変わっている。
「切原くん」
「あっ! 無川先輩! 何してるんスか! 声かけても全然反応しねぇし」
「ごめんなさい。でも、柳生くんが見つかりました」
「マジッスか!? それで……」
「見た感じ、目立った怪我はしてないみたいです。けど、気を失ってるし、ちょっと私一人じゃ運ぶのは厳しそうです。柳生くんが目を覚ましたら、また、声かけます」
「了解ッス。ホント気を付けて下さい」
切原と短い会話を終え、ふと、柳生の演技ぶりを思い出し改めて感心していた唯は、そういえば彼の眼鏡がどこにあるのかと周囲を見渡した。
すぐにそれは見つかった。
二人から少し離れた廊下に近い床の上に、まるで打ち捨てられたように彼の眼鏡は転がっていた。
唯は一旦携帯電話を柳生のすぐそばに置き、彼の眼鏡を拾い上げる。
フレームは無事だったが、レンズの片方は完全に外れ、残っている側も大きくひびが入って今にも砕けてしまいそうだった。
床には、外れたレンズが粉々になって散らばり、白光が映り込むことできらきらと輝きを放っている。
唯はハンカチに眼鏡を慎重に包み込むと、制服のポケットに仕舞い込んだ。
――鏡ってこれだよな? 別に何も変わってねぇけど……
国舘が呟く言葉に曖昧に返事をした切原は、冷たい鏡面を見つめたまま、唯から先程聞いたばかりの話を繰り返し思い出していた。
(無川先輩と柳生先輩が、この鏡の中に?)
マジかよと思わず口をついて出た言葉に、切原は舌打ちをする。
(信じるって、さっき言ったじゃねーかよ)
自分のすぐ後ろに立ってている国舘の疑心も良く分かる。常識的に考えて、唯から聞かされた内容は有り得ない話だ。
だが、先程唯との通話中に電話の先から漏れてきた奇妙な呻き声を仮に国舘が聞いていたとしたら、今の立場は逆になっていたのかもしれない。
そんなことを考えている内に、いつの間にか国舘も切原の真横に立って鏡を覗き込んでいた。
「”あの話”って本当なのかな?」
ぽつりと漏らしたのは国舘だった。
彼の言う”あの話”というのが、唯のことを指しているのではないことを切原は分かっていた。
「立海七不思議の話だろ? この鏡の前で深夜二時に合わせ鏡をすると、未来の自分が見えるってやつ。今はセキュリティの関係で、そもそも深夜の学校に忍び込むこと自体が厳しいらしいけどな」
「何? 切原ってそういうのは興味ねーの?」
「こっくりさんは面白そうだけど、こういうのはあんまし。つっても、もうこっくりさんはごめんだけど」
不貞腐れたように答えた切原に国舘も苦笑いで同意する。
そのまま切原は手を伸ばし鏡面に触れた。思ったよりも冷たい感覚が手の平から全身にじわりと広がっていく。
鏡は、ただありのままに二人を映し出しているだけだった。
この中に二人がいる。
そう考えれば考えるほど、奇妙な感覚は増していく、鏡に映る自分の表情も心なしか歪んでいくような気がした。
「無川先輩とさっき話したじゃん? 俺が信じるって答えた時、すごく安心したようにありがとうって言ったんだ。そん時さ、ホント何となくなんだけど、この人、絶対嘘ついてねーなって思ったんだよ」
俺いつも仁王先輩とかに騙されてるから何とも言えねぇけどと、笑いながら切原は続けた。
「……しゃーねーなぁ」
黙って聞いていた国舘が、おもむろにがりがりと頭を掻いて呆れたように口を開いた。
きょとんとした切原と目が合うと、彼はにっと笑う
「お前、言い出したら譲んねぇし。この際、信じる信じないは置いといて、とにかく無川先輩に賭けるしかねーだろ」
「国舘……」
「ほら、さっさと無川先輩に状況確認しろよ。俺は、柳生先輩の携帯にもう一回電話してみるし――」
――き――はら――切原!
腕を掴まれた感触にはっとして、切原はニ、三度瞬きをした。思いのほか長く思案、と言ってもほんの少し前の出来事だが、一人耽っていたらしい。
眉を顰めた国舘が、はぁと大きくため息をついた。
「お前、さっきからぼーっとし過ぎ。で、無川先輩はなんだって?」
「柳生先輩見つかったって。気失ってるらしいから、起こしたらこっち来るってさ」
「マジで! よっしゃ!」
切原のもたらした吉報に小さくガッツポーズをした国舘を見て、彼もそっと同じように腕に力を込めた。