カレイドスコーピオ

インビジブル

06.嘘つきの代償 / 16

 三階に足を踏み入れた瞬間、まずの鼻を突いたのは異様な匂いだった。
 生暖かい風に混じって、微かな腐敗臭がする。明らかに今彼女が立つ場所は、階下の空気とは全く異なっていた。
 肌が粟立つ。寒さを感じるわけではないのだが、この階に上がってからというもの、嗅覚を始めとした五感が放つ警笛が一向に鳴りやまない。無意識に彼女は両腕をさすり始めていた。
 そんな嫌な予感しか覚えさせない変化に、彼女は手首に収まっているシュシュに視線を落とす。そして弱々しいながらも青白く光を宿しているのを見て、心臓が跳ね上がった。

――隣にって……今、俺の携帯、無川先輩と繋がってるんスけど……

 切原が狼狽しながらそう答えた瞬間に柳生との通話が切れた。
 そのあとはもう、国舘が何度発信してみても柳生の携帯電話は圏外アナウンスが流れるばかりだった。
 柳生の身に何かが起きた。
 三人ともその言葉をあえて口にはしなかったが、皆、焦りの感情を一様に覚えていたのは当然のことであり、特にに至っては、とにかく早く柳生がいると伝えた二年D組まで行かなければと、なるべく臭気を吸わないよう気休め程度に口元を抑えながら再び走り出した。
 二階よりもずっと重い闇が漂う中をそれでも慎重に歩みを進めて、ようやく二年D組の前に辿り着いたは柳生の姿を探した。
 しかし期待した彼の見当たらず、右往左往するうちにシュシュを再度確認すれば、灯している光が先程よりもずっと増したように感じられた。
 臭気に鼻が慣れることもなく、それどころか益々酷くなってきている。まるで肌を舐め上げるかの如くねっとりとした嫌な空気で周囲は満ちていた。ところが、そう言った感覚を刺激する要素が顕著になってゆく一方で、一向に霊の姿はおろか気配すらない。
 それはまるで、この空間に存在しているのはだけなのだと、改めてまざまざと思い知らされるようで、むしろこういう状況こそが彼女に恐怖を感じさせていた。
 は柳生の言葉を必死に思い出しながら、教室のプレートを確認する。辿り着いたのは二年D組で間違いがない。
 彼はここで”無川さんが隣にいる”と言っていた。だが、当の本人はこうして切原とずっと電話という媒体で繋がりながら、その柳生を探していたのだ。では、柳生の隣にいたとは一体誰なのか?
 考えなくとも結論は明らかだった。ぶるりと彼女の身体を震えが駆け抜けていく。

「や、柳生くん!」

 いくら霊の気配がないとはいえ、危険な行為だとは分かっていたが、叫ばずにはいられなかった。
 携帯電話の先で常に聞き耳を立てている切原は、が突然大きく声を上げたため、どうしたんスかと焦ったように叫んでいる。

「切原くん。柳生くんがどこにもいない」

 切原と話しながら、ディスプレイに表示されたバッテリーの残量を確認すると、半分を切り始めていた。思ったよりも消耗が激しい。
 念のために目の前の二年D組の室内を確認しようと思い扉に手をかけたが、どうやら施錠されているらしく、ガチャガチャと音を立てるばかりで開かなかった。

「やっぱり柳生先輩に繋がらない。無川先輩だけでも、一旦鏡のところに来て下さい。上手くこっちに戻って来れたら、それからどうするか色々考えましょう」

 切原の後ろから叫んでいるのか、少しくぐもったような国舘の声が聞こえてきた。
 国舘に賛同して、切原も同じく言葉を重ねる。

「駄目だよ。柳生くんを探さないと。だって……」

 仁王の話では、柳生は霊的なものに対しての耐性があまり強くないと言っていた。
 そんな彼の隣にいるという、もう“一人の”は間違いなく霊の類だろう。三階に上がったとたんに仁王の髪がこうして反応を示しているということは、彼がもし同階のどこかにいたとしたら非常に危険な状態にあるはずだ。
 仁王を思い浮かべた途端に彼女は動揺した。今もきっと彼は校内で柳生を探している。
 事態はの手には到底負えないような方向に進んでいた。彼ならこういう時、一体どうするのだろうか。
 切原を通して仁王に事情を伝えれば、きっとこの事態は好転するに違いない。だが、切原たちに何と説明したら良いのか、この時のにはいくら考えても適当な言葉が見つからなかった。
 仮に切原たちが余計なことを知ったとしても、仁王なら上手く誤魔化すのは容易かもしれないが、彼らはきっと自分でも意識しない深い所で、仁王に対して疑問を持つだろう。
 それがどんなに些細なものであったとしても、棘は棘に変わりはない。小さいと見くびって突き刺さったまま放置しておけば、いずれ膿を持ち取り返しのつかないほどの傷に肥大するのは、自身も痛いほど分かっていた。

「……ごめんなさい」
「え? 何、無川先輩、聞こえないッス」
「何でもないです。もう少しだけ、柳生くんを探します」

 これまでも、仁王の髪で十分に窮地は凌いで来れた。
 腹を決めたは、切原の慌てたような制止を振り払って携帯電話から耳を離すと、とりあえず隣のクラスの施錠確認から始めるべく歩き出した。
 瞬間、からからという乾いた音が響いた。
 びくりと肩を揺らしたが振り返ると、先程鍵がかかっていると確認した扉が、ほんの僅かに開いていた。

2012/09/16 Up