
唯は廊下の左右を見渡した。どちらも数メートル先は暗く、まるでぽっかりと穴が開いているようにも見えた。
その暗闇は、以前切原のこっくりさんの時に遭遇した大蛇を模した影が、大きく口を開いた様を彷彿とさせる。
普段の学校の相貌からは考えられないほど異様な空間がそこには広がっていて、自分一人が無造作に放り込まれたという事実を、今更ながら彼女に突きつけてくるようだった。
すぐ目の前に漂う深淵からは、湿った黴臭い空気と並々ならない不安が、まるで打ち寄せる波の如く、繰り返し揺さぶりをかけてくる。
息苦しさを覚えて唯が大きく深呼吸を一つすれば、それらの重苦しい空気が肺を内側から圧迫した。彼女は胃から一瞬せり上がってくるものを感じて口元を抑えながら、廊下の左右、どちらに進むか迷っていた。
そもそもこの教室がどこなのかと、扉の上部に飾られている教室名のプレートに目を向ける。
ここは、鏡合わせの世界のため文字の類は読み取り難かったのものの、教室番号については薄暗い中でも確認することが容易だった。
(……一年B組)
唯は心の中だけでぽつりと呟いた。
この鏡の中の世界では、あらゆるものが現実とは反転して存在している。
そのことを鑑みれば、ちょうど彼女がいる場所は、二階の北側に位置する教室ということになる。
最終目標とする例の鏡がある場所も、同じ条件で南側の三階踊り場だ。
そこに辿り着くには、二通りの方法がある。廊下を右に進み、一年A組の教室の前を通って突き当りの階段を上がってから、三階の廊下を進む方法が一つ。左に進み、二階の廊下を一旦果てまで抜けてから三階へと階段を上がっていく方法が一つ。
当然、後者の方が、僅かながら目的地までの距離が短く済む。
だが、最短で辿り着くよりも、彼女にはもっと先に成さねばならぬことがあった。
「柳生くん……」
今度は、自然に言葉が漏れていた。
彼が唯と同じこの場所にいる根拠は全くない。鏡に映ったあの彼の後姿も虚像だったのかもしれない。
それでも柳生と唯が直接連絡を取る手段がない今、彼女がその手の中に握っているのは、校内をあてもなく探すという方法だけだった。
唯はちらりと手首のシュシュに視線を落とす。
意識を集中させてみても、そこに光が宿る気配はなかった。
そのことにほっとしたのもつかの間で、柳生を見つけるのに全て運に頼るわけにもいかないという問題が大きくのしかかってくる。
どうすれば良いのだろうと唯は携帯電話を無意識に握り締め、そこでようやく思い出したように声を上げた。
「切原くん」
「どうしたんスか? 無川先輩」
「柳生くんの携帯電話、やっぱり繋がらないですか?」
「国舘がずっとかけてるんスけど、圏外ばっかで……国舘、やっぱ駄目?」
「全然駄目……あっ、ちょっと待って!」
突然国舘が声を上げ、切原に通話が繋がったとジェスチャーで示せば、その場には得も言われぬ緊張が走った。
切原は、小声で唯にの国舘のことを伝え、彼女は祈る思いで耳を澄ます。
全員が、固唾を飲んで見守る中、間もなく切望した電話は繋がった。
「や、柳生先輩! 俺です。国舘です。大丈夫ですか?」
「その声は、国舘くんですか? 良かった。誰に電話しても一向に繋がらなくて……」
いつものように落ち着き払った柳生のその声に、切原も国舘も揃って胸を撫で下ろした。
唯にもかろうじてではあったが、そのやり取りは聞こえており、安堵と同時にこれで上手くいけば、柳生の居場所が判明することへの期待が一気に膨らんだ。
「柳生先輩、大丈夫ッスか? 今、どこに」
「切原くん! 貴方もいたんですね。ここは……えぇ、二年D組の教室前です。ただ、この場所は、何と申し上げたら良いのでしょうか……どこか少しおかしいようです」
柳生が若干歯切れが悪く言葉を締めたのは、今自分が置かれている状況を説明することに躊躇しているからだろう。
唯はこの瞬間に、柳生が自分と同じくこの鏡の世界の中にいると確信した。二年D組と彼女は心中で繰り返す。
それならば、廊下を左に進めば、廊下の中点にあたる一年C組の直ぐ隣に階段があるはずだ。そこから上階へ上れば、柳生が言っていた二年D組まで最短で行くことが出来る。
彼女は暗闇をじっと見つめる。
変わらずそこには、不自然な暗闇が揺蕩っていた。彼女は一瞬怯んだが、やがて思い切って駆け出した。
「大丈夫です。先程、合流した生徒の方と一緒におりますし」
「柳生先輩と無川先輩以外にもそこにいるんスか!?」
切原とやり取りを続けていた柳生が放った一言に、三人はほぼ同時に驚きの声を上げた。
だから彼はこんなにも落ち着いていられたのかと、唯が納得するのと同時に、それが一体誰なのかという新たな疑問が浮かぶ。
ところが、柳生が続けて告げた内容は、非常に不可解そのもので、唯は思わずその足を止めて彼の言葉を反芻していた。
「切原くん。無川さんをご存じなんですか? 彼女ならちょうど今“私の隣にいます”」