
「切原?」
携帯電話を握ったまま固まっている切原を見て、国舘は怪訝そうに眉を寄せると彼の名前を呼んだ。
「……切原?」
国舘にぐいと肩を強く引かれて、切原はようやく彼と視線を交えた。
切原はそれでも携帯電話を耳から離さずに、ただただ戸惑った表情を浮かべている。
その様子に国舘も同じように困惑の色を浮かべ、彼の握り締める携帯電話の向こうにいる見えざる通話相手へ一瞬だけ目を落とした。
「一体、急にどうしたんだよ。切原……」
「あ、いや、いきなり切らないでって言われて、何かびっくりして……」
惚けたように国舘を見返していた切原は、彼としっかりと視線が絡んだをのをきっかけとして、我に返ったのかニ、三度瞳を瞬かせてかぶりを振った。
そうしてから、じっと黙り込んでいる唯へと問いかける。
「ア、アンタ一体誰だよ?」
切原の声は、初めの頃よりも大分覇気が削がれてはいたが、それでも唯は彼の声に大げさに肩を震わせて反応する。
電話越しという間接的な状況ではあるが、彼とこうして接点を持つのは、あの探し物のためのこっくりさん以来だった。
切原にとってもあの出来事は、今でも鮮烈な色をもって彼自身に焼き付いているはずだ。ここで彼女が名乗ればきっと思い出すに違いない。
だが、それを躊躇する理由が唯にはある。言わずもがな、仁王の存在だ。
「切原、知らない奴だったら切れよ。お前、マジで変だぞ?」
「あぁ、分かってるって! もう何だってんだよ。調子狂う」
切原の声が一瞬遠くなった。
彼の携帯電話を耳から離したためだと気付いた唯は焦りを覚えた。彼女の思考の端々で、仁王の顔がちらいている。
ここで今、切原との通話が切れれば、この奇妙な鏡の世界と現実世界の繋がりが途切れてしまう。そうしたら最後、再びそれが結びつくとは到底思えなかった。
この場所に放り込まれたことに対する恐怖は不思議となかったが、こうしていざ誰かと繋がりを持ってしまった今、心の底で僅かに吹き溜まっていたこの世界には自分一人きりかもしれないという不安が、急速に渦を巻き始め増長していくのを感じていた。
受話器の向こう側では、切原と国舘が何やら話しているが、唯には聞き取ることが出来なかった。
唐突に響いたザザザというノイズに、反射的に彼女は口を開いていた。
「ま、待って切原くん!」
言ってしまってから、彼女は慌てて呼吸すら止める勢いで自身の口元を抑え込んだ。
その一方で、電話の向こうの切原がぴくりと反応を見せる。
「え、あ、その声、どっかで……」
切原が、記憶を辿るように目を泳がせて、空いている方の手でくしゃりと髪を乱す。
ぶつぶつと独り言で呟く切原の様子に唯が戸惑っていると、そこに国舘の声が割って入った。
「切原! しっかりしろよ。一体お前どーしちゃったんだよ! ちょっと電話貸せって……もしもし」
切原と話している時よりも、低く、彼女を訝しる声が携帯電話越しから響く。
ぴりぴりとした空気が声からも伝わってきて、唯はごくりと一度喉を鳴らした。
通話を切りたくはないが、切らなければならない。そんな葛藤が重くのしかかるが、国舘の畳みかける誰なのかという問いと自らが帯びる不安に、とうとう唯は折れざる得なかった。
「あの、私、その……無川……です」
「え? 無川って……もしかして、無川、せんぱ、い?」
思ってもみない返答に、彼が抱えていた怒りも切原と同様に急速に陰りを見せた。
そしてぽつりと漏れたその名前に、切原も驚きの声を上げた。
「あ、無川先輩、お、お久しぶりです」
上ずった声を出しながら場違いな挨拶の言葉を告げた国舘から、切原は素早く携帯電話を奪い取り、焦ったように口を開く。
「な、何で無川先輩が俺の携帯知ってるんスか……って、今まで、ずっと無言電話かけてきたのも無川先輩!?」
「え? 無言、電話? そんなの知らない、です……」
そこまで話して、唯ははたと口籠った。
相手が互いに多少見知った間柄だったとしても、自分が現在置かれている状況を包み隠さず伝えたとして、信じてもらえるとは思えなかったのだ。
「あの……無川先輩。この際、無言電話とかどうでも良いッス。それより、無川先輩に聞きたいことがあって、いや、無川先輩なら、何か知ってる気がして……」
「切原、まさかあのこと」
「だって、あの柳生先輩、絶対おかしかったって」
切原から柳生という思わぬ言葉が転がり出て、思わず唯は、微かに柳生くんと漏らした。
「無川先輩。柳生先輩のこと見たんですか!」
「あ、あの……」
切原が明るい言葉で即座に反応した。
だが、これも先程と同じく、まさか鏡に映った彼の姿を見たとも唯が言えるはずがない。
「……すんません。今からすごく変なこと話しますけど、引かないで聞いて下さい」
声の調子を落とした切原は、そうしてためらいがちに話をし始めた。