
唯が声を上げる間もなく、その身体は冷たい床に倒れ込んだ。
腕から着地することになったため、彼女は肘から先を床へ強かに打ち付けたが、特に痛めたわけではないようだった。
慎重に身体を起こせば、並んだ机と椅子が目に飛び込む。それがここが教室であることを彼女に示した。
「な、何で……?」
彼女は近くの机の足に思わずしがみつき、やっとの思いで身体を支えていた。
背中を誰かに押された感触は今も確かに残っている。そして、自分の身体が、あろうことか鏡の中を通り抜けた瞬間の表現しがたい感覚も。
だが抜けたその先が、彼女が立っていた階段の踊り場ではなく、何故かどこかの教室だった。
教室内の電気は消えている。鏡を抜ける前には十分過ぎるほど明るかったはずなのに、照明のことを差し引いたとしても、やけに室内は薄暗かった。
唯は、丁度黒板と教卓を背にして倒れていた。
まるで、すぐにでも夜の帳が降りてきそうな、違和感を覚える雰囲気が漂い、ぶるりと唯は身体を震わせる。
教室ですらこの有様だ。廊下はどうなのだろうかと、左側へ視線を向けた瞬間に彼女は思わず目を見開いた。
「え? 窓?」
そこに広がっていたのは、本来あるべき廊下へと続く扉ではなく、壁一面に並ぶ窓だった。
窓の外は本来であればグラウンドが臨めるはずだが、今の唯の瞳に映るのは、まるで底の見えない穴のように広がる暗闇だった。空の高いところで、丸く切り取られた熱の孕まない光を放つ太陽とも月ともつかないものが見える。
その白い光のおかげでかろうじて明度を保っているが、もし、それすらもなかったら、本当にこの場所は常闇に沈んでいるのだろう。
だが、わざとらしくすら感じるその輝きは、この場所においてかえって浮いてしまっているようにも思えた。
唯は続いて右側を見た。今度は彼女が最初に予想していた通りの扉がそこにはあった。
ここは、立海とは違う教室なのだろうかと一瞬思ったが、彼女の視線の先にある扉は、良く見慣れた形をしており、教室自体の雰囲気もまた同様だった。
彼女は、確かめるように今度は正面の壁を見る。壁にはいくつかの掲示物があり、それが視界に入ったとたんに、ようやく合点がいったと唯は目を伏せた。
ここは紛れもなく、鏡の中にある世界だった。
彼女の目の前に並ぶ掲示物に綴られた文字列は、まさに鏡合わせにしたように反転していた。つまり、この場所にあるありとあらゆるものが、現実とは正反対に置き換わっているのだ。
廊下に改めて視界を向ける。扉に嵌め込まれた擦り硝子越しに見える廊下にも、教室と同じく照明は灯っていない。この様子では恐らく教室以上に視界が悪いのは否めないだろう。
異様な場所に放り込まれたことから、本能的に感覚がやけに鋭くなっている。唯の近くに誰かがいる気配は全くなく、ただただ静かだった。
霊が見えるようになってから、一つだけ良かったと唯は思うことがある。
いないはずものが見えるということは、裏を返せば、見えなければそこには本当に何もいないということになる。
だから、今の状況に驚きと不安はあっても、恐怖はあまりなかったのだが、かと言って、このまま廊下に出る勇気は別物で、まだ今の彼女はそこに踏み出すことはできなかった。
柳生もこの場所のどこかにいるのだろうか。
鏡に落ちる直前に、その鏡が映し出していた彼の後姿を思い出す。
仁王の言う通り、柳生が霊感がないどころか、そう言った類のものに弱いとすれば、今の唯のようなまだ穏やかと呼べる状況に身を置いていないかもしれない。
ジョーカーは、唯を再び狙うだろうと仁王は警告した。
確かに彼女の背を押したのは、異常に冷たい人の手で間違いがなかった。あれは、果たしてジョーカーだったのだろうか。
偶然とはいえ、柳生に十円玉を渡したことで彼を巻き込んでしまったのではと、唯は後悔の念に蝕まれそうになる自分を励ますように膝を抱えて蹲った。
その瞬間に、手がスカートのポケットの中にある堅い物に触れる。彼女ははっとして慌ててそれを取り出した。出てきたのは彼女の携帯電話だった。
震える手で画面を確認すると、思わず唯は息を飲んだ。
場所が場所なだけに、無理だろうと予想していた電波状態を示すマークが、時折一瞬だけ圏外になるものの一本かろうじて立っている。
もしかしたら繋がるかもしれないと、僅かに湧いた希望に、必死に震える指先を動かしてアドレス帳を呼び出した。
ところが、画面に表示された内容に、彼女は思わず携帯電話を取り落としそうになる。
そこには、登録されているはずのアドレスがたった一つを残して全て消えていたのだ。
――・ソ蛻・次襍、荵・
アドレス帳までの画面表示には全く問題がなかったのにも関わらず、名前の部分だけが文字化けしている。そのため、この表示名が一体誰であるのかは分からなかった。
電話番号を確認しようとこの名前を選択すると、次に表示されるのは、数行に渡って並ぶ発信のコマンドだった。
寒気が彼女の全身を駆け抜ける。明らかに異様な挙動を見せる携帯電話のディスプレイを見つめて、それでも彼女は発信をするべきかしないべきかを悩んでいた。
ここまで来ると、頼りになるのは己の感のみだ。
しばし瞳を閉じて考え込んでいた唯は、やがて大丈夫と自分を励ますように小さく呟くと、意を決して発信を選択した。