
唯から柳生とのやり取りの一部始終を聞いた仁王は、焦ったように部室へと向かっていった。
ついてくるなと言われた彼女は、しばらく踊り場から動くことが出来ずに、その場に膝を抱えて座り込んでいた。
彼は、仁王に変装した柳生と気付かずに、憑代を手渡してしまった唯のことをそれでも一切責めることはなかった。
仁王が言うには、憑代をただ所持しているだけで深刻な影響が出ることは考えにくいが、柳生は、霊感がないだけに留まらず霊的なものに対する耐性が通常より弱く、既に多少なりとも変化が表れている可能性があるらしい。
柳生も関東大会を七月に控え、日々調整している身だ。そして、仁王のダブルスの相方がその柳生だという。
彼が仁王に変装していたのも、どうやらそのダブルスにおいての戦略の一つであったそうで、見た目はともかくとして、肝心の中身はまだ完成に程遠い状態だったはずと、仁王は険しい表情のままそう説明した。
それでも、仁王に対しての弁明で頭がいっぱいだった唯にとって、そんな穴だらけだった柳生の駆け引きに違和感を覚えたとしても、見破ることなど到底出来るはずもなかった。
変装とテニスの関連性については彼女が理解可能な範疇を超えていたが、少なくとも、そうもしてまで仁王の行動の意図を柳生は知りたかったのだろう。
十分ほど経っただろうか。
湿った空気は、相変わらずそこら中に漂っていた。唯を取り巻くその空気の濃さが増したことから、外で降り続く雨は強くなったのかもしれない。
膝に埋めた顔を上げた唯は、しばらく空を見つめたのち、ようやく重い腰を上げた。ふらついた身体を背後の壁が受け止める。
仁王は、柳生の元へ渡った憑代を回収するために向かったのだろう。その際、彼からの叱責は免れないはずだ。
本来であれば、この役を担うのは、原因を作った張本人でもある唯がやるべきことだった。
それを仁王が自ら引き受けたのは、これ以上彼女にボロを出させないためだ。こうなってしまったら仁王に任せるほかはないが、仁王のことだけではなく、柳生にも何事がないことを祈るばかりだった。
仁王に言われた通り、唯も自分の部活に向かわなければならない。
こんな心情で絵など描けるはずもないが、ここ最近、すっかり彼女の筆は思うように進まず、酷い時は完全に止まってしまっていた。
何でもいいからとにかく描かなければと、焦りを覚えていたのも事実で、唯は今のこのどうしようもない不安な感情から少しでも逃れるべく、部活中は躍起になって制作に取り掛かっていた。
彼女は、複雑な思いを抱えたまま一息つくと、もういい加減に美術室へ行かなければと階段を駆け下りた。そうして廊下に出てから更に階下へ降りようとしたところで、何となく今彼女が立っている場所から丁度反対側にある、廊下の突き当たりへ視線を向けた。
そこに佇んでいた人物の姿をとらえた瞬間、唯は思わず声を上げ、その突き当りに向かって走り出していた。
「柳生くん!」
走っていたのか、軽く息を切らせその肩を僅かに上下させていた柳生が、ふいに俯き加減だった顔を上げた。
ただそれは、唯の声に反応したわけではないようで、柳生に唯の声は届いていない。
彼が視線を向けている先には階段があるはずだが、唯の位置からはちょうど影になっており見えない。
恐らく誰かがそこから柳生に声をかけたのだろう。そして、そのまま彼は、階段のある方へ姿を消してしまった。
唯は、周囲の注目を集める危険性があったことも構わずに、もう一度柳生の名前を叫んだが、それでも彼が戻ってくる様子はない。
ようやく彼を見かけた突き当りまで辿り着いた唯は、息を弾ませながら彼が向かったと思われる階段を見た。
既にそこには、柳生の姿はおろか、誰の気配の残留すら残っていなかった。
下階と上階、彼がどちらへ向かったのか分からない。それでも自然と彼女の足は、まるで当たり前のことであるように、上階へ向けられていた。
「あ、これ……」
踊り場へ上がった時、彼女の目に留まったのは、壁に備え付けられた大きな鏡だった。
フレームこそしっかりしているものの、鏡面は、年代を感じさせるくすみの他、縦に細い亀裂が幾本か走っている。それでも、唯の全身をしっかりと映し取っていた。
この鏡が設置されたのは、立海大付属中学校が開校したのと同時だと、教師の話から唯も聞いたことがあった。それだけ経てば、こんな状態になるのも頷ける話だった。
彼女は、急ぐ足を止めて鏡を覗き込む。瞬間、彼女の頭にある有名な噂話の一つが過ぎった。
その話の詳細を思い出している途中に、鏡に映った唯の姿が不自然に揺らいだ。
咄嗟に唯は手首のシュシュに手を添え警戒する。すると、鏡面が一瞬水が揺れるように波打ったかと思うと、唯の姿の代わりに映っていたのは、廊下を駆ける男子生徒の後姿だった。それは、紛れもなく先程見たばかりの柳生だった。
「や、柳生くん!?」
驚きに目を彼女が見張っていると、唯の背中に二つの手の平が押し付けられた。
そのあまりの冷たさに、ぞくりと彼女の背筋が逆立つ。
人の気配など全くなかったはずだ。むしろこのように手を添えられる位置に立たれたら、さすがの唯でも違和感に気付くはずだ。
それでも視界の端で見たシュシュの中にある髪は、どういうことか特別反応していなかった。
霊ではないのかと一瞬唯が思考を巡らせた瞬間、彼女の背は強く前方へと押され、その身体はまるで鏡に吸い込まれるようにそのまま中へと倒れ込んだ。