
今日の部活は、珍しく普段はあまり顔を見せない部員も美術室で作業に取り掛かっていた。
七月の第二週には、絵画展の作品を提出しなければならないが、もう残り三週間を切っている。制作に力を入れている部員の中でも、早い人では仕上げの段階に入っている者も当然いるのだろう。
唯もあれから何とか絵の表情も決まり、この調子なら問題ないレベルまで仕上げることが出来る見込みだった。
美術室内では、キャンバスに筆を走らせる音であったり、筆を洗う音であったりと、絵に関連する音だけが言葉の代わりに響いていた。
しばらくして、一旦区切りがついて誰よりも早く手を止めたのは唯だった。
絵の様子を確認してから筆を置くと、乾いた喉を潤しながら、鞄の中から二枚のプリントを取り出した。
(二者面談、か)
一枚目のスケジュール表によれば、来週の頭に担任教師との面談があるようだ。内容は、避けては通れない自分の進路についてである。
既に四月からこうして面談は繰り返されていたが、今回は推薦も絡んでいる人にとっては、ほぼ進路確定と言っても良い内容になるはずだった。
唯は続いて二枚目を捲る。
進路について多くの質問項目が記入形式で並んでいる。しかし、そのどれもが未だ空欄のままだった。
良く見れば、立海大付属高等学校の場所に、何度か丸を付けて消された跡がある。
立海生の多くはそのまま高等部へ上がるため、外部の高校へ進むのは珍しいとも言われている。彼女の第一の迷いはここから始まっているようだった。
少しの間、紙面を眺めていた唯だったが、やがてプリントを鞄に戻すと、再び絵に向き直った。
口元に微かな笑みを浮かべた自分がそこにいる。普段からこんな風に笑っているか、自分では良く分からない。
これを果たして自画像と呼べるのか、そんな愚問を己に問いかけたくなる。そんな絵。
去年の方が、良い絵が描けていた気がする。一瞬浮かんだ考えを、彼女は頭の片隅に無理矢理押し込んだ。
幸か不幸かその思考を拭い去ったのは、携帯電話のバイブレーションだった。たまたま見えたディスプレイには仁王の名前が表示されている。
雨が降った日は、室内トレーニングか休みかどちらかになると前に仁王から聞いたことがあるが、今日がどちらに該当するのか彼女には分からなかった。メールの内容は「今から美術室に行く」という、普段以上に簡潔な内容だったが、生憎と今日は他の部員がいる。
慌てて、空き教室に変更したいと返信すれば、彼からは屋上階段の踊り場という微妙な場所を指定された。
踊り場は廊下よりも大分薄暗く、じっとしていると、特に今日は雨のせいか湿気を孕んだひんやりとした空気が身体を包み込む。
屋上に繋がる扉は施錠されており、唯はコンクリートの壁に身体を凭れさせながら、仁王がやってくるのを待っていた。
ほどなくして、階段下から白妙の髪の一辺が覗き、彼がやってきたことを知らせる。
唯がじっとその動きを見ていると、やがて目が合った彼は足早に階段を駆け上がってきた。
「無川、聞きたいことがある」
「どうしたんですか?」
開口一番に告げた仁王の表情は、普段よりも随分と険しい。
唯は一体どうしたんだろうかと疑問に思い、同時に何故か心の中がざわつくのを感じた。
「男子テニス部の部室に入ったか?」
「部室? いえ、そもそも私、実はどこにあるのかすら知りません」
そうかと言ったきり仁王は口を閉ざすと、周囲の様子を伺ってからワントーン下げて続けた。
「部室に張ってあった結界を、誰かが触ったみたいじゃ」
「結界を?」
「ああ、些細な変化でも張った本人の俺には分かる。一番気になるのが、結界の効果が今も継続しとることぜよ。あれは、何も知らん悪意のない人間が外した時点で、わざと結界としての効果を失うようにしとる。それがちゃんと今も働いとるってことは、触ったのが俺の髪を持っとる無川か、結界の扱いに長けてる他の人間以外に考えられん」
仁王が何やら思案している間、唯も心当たりを探っていた。
そして、可能性として思いついた人物の名前を口にする。
「あの、柳生くんって、霊感ありますか?」
柳生の名前に仁王が盛大に眉を顰めた。
「柳生? あいつなら霊感は殆どない。そもそも無川も相手が霊感あるかないかくらい視れるじゃろ。憑代を視分けるのと対して変わらんぜよ」
「え、そうなんですか? 全然意識したことなかったです」
「何で急に柳生が出てくるんじゃ?」
「だって、この前話した通り、仁王くんのことすごく気にしてるみたいだから」
「……待て」
何の話じゃと、仁王は壁に寄り掛かっていた身体を浮かせて、険しい表情を崩さずに唯を見た。
彼の思わぬ反応に彼女は困惑した。
「な、何の話って……この前言いましたよね? 柳生くんに仁王くんの家に入る姿を見られたって……」
唯の言葉に仁王は一瞬目を見開いた。そして、片手で顔を覆い瞑目する。
意味が分からず狼狽える彼女は、先程のざわつきが、再び息を吹き返してくるのを感じていた。
「……やってくれたぜよ。柳生」
仁王のどこか皮肉の混じる言葉と同時に、唯は全身の血の気が一気に引くざわざわという音をはっきりと聞いた。
初め仁王はそれに気付いていなかったが、顔面が蒼白なった彼女の震える声でようやく異変に気付く。
「まさか。あれ、柳生君だったんですか? どうしよう。私、柳生くんのこと仁王くんだと思って、見つけた憑代を渡しちゃいました……」