
玄関の扉を開けたところで、その音をいち早く聞きつけたのか、唯に向かってまっしぐらに廊下を駆ける軽快な足音が響いた。
彼女が靴を脱いでフローリングに上がれば、待ちかねたようにその足音の主が足元にじゃれついてくる。
「ただいま」
首元を軽く撫でてやれば、低くごろごろと甘えた声を上げる。そのまま真っ黒な背を一撫でしてから歩き出せば、ぴったりと寄り添うように足音が付いてきた。
「もう、あれから全然連絡も入れないで!」
リビングに向かって廊下を歩いている途中で、その先から顔を覗かせてそう言ったのは彼女の母親だった。
「ごめんなさい」
「朝も具合悪そうにしてたから、本当に心配してたのよ。あら? 本当に顔色も良くなってる。熱も……ないみたいね」
唯の顔を覗き込みながら自身と唯のそれぞれの額に手を当てて、母親はほっとしたように息をついた。
「もう大丈夫だよ」
「絵に熱中するのも分かるけど、また体調崩したら元も子もないわよ」
「あ。うん。ご、ごめんなさい」
予め考えていた言い訳を唯は飲み込んで、ただ同じように謝罪の言葉を繰り返した。
やはり嘘をつくのは気がひけるが、かと言って仁王との話をありのままに言うことは勿論、上手くはぐらかしながら説明出来るとも思えなかった。
結局、もう一度ごめんなさいと謝っただけに留めた彼女は、制服を着替えるために二階へと上がっていった。
部屋に入ってすぐに、唯はベッドへと勢いよく倒れこんだ。
にゃあという声に、埋めていた顔だけを持ち上げれば、目の前には自分の影のように追いかけてきたその姿がある。左右に大きく揺れ動くしなやかな尻尾が、一定のリズムでベッドカバーを叩いていた。
唯が手を伸ばして頭を撫でてやれば、気持ちよさそうに蜂蜜色の目を細めて喉を鳴らす。
この黒猫は、前に住んでいた家からの付き合いだ。
丁度六年生の秋、段ボール箱の中、たった一匹で丸まっていたところを唯が見つけ、そのまま見過ごすことも出来ずに連れ帰って来たことがきっかけだった。
当初、両親は首を縦に決して振らなかったが、必死に懇願する娘に結局は根負けする形で飼うことになったものの、家族の誰にも全く懐かずたいそう手を焼かされたのは、今となっては懐かしい話だ。
彼は、爪を立てるわけでもなければ、家中を駆けずり回るわけでもなく、とにかくただ狭い所に潜り込んでは押し黙って唯たちのことを見ているのだ。この調子では勿論、餌を与えても食べるはずもなく、日が経つにつれ目に見えて痩せ衰えていった。それでも体色は暗闇に溶かして、瞳だけは爛々と輝かせる姿は、唯は今でも昨日の事のようにはっきりと思い出すことが出来る光景だった。
それから色々あったが、今では家族の中では唯に一番懐いており、こうして家にいる間は決してそばを離れない。
彼は唯にとってのもう一人の親友だった。
唯が身体を起こすと、待ち構えたように膝の上に滑り込んできたその黒猫が、じっと彼女の制服のポケットを見つめていた。
こういう瞬間に出くわすたびに、動物というのは人間より遥かに敏感なのだと感心させられる。そう言えば、彼女が水を欲しがる少女に憑りつかれていた時も、始めこそ大人しくしていたが、日が経つにつれて警戒するように彼女の左肩を見つめて、その全身を逆立たせていたことを思い出した。
「大丈夫だよ。ネロ」
宥めるように毛を梳く手を再開させれば、瞬きもせずにポケットを見つめる瞳がゆっくりと半月状になっていく。
大丈夫ともう一度呟いて、唯は空いている手でポケットをまさぐった。
すぐに見慣れた包みが姿を現し、彼女は机の上に置いたままにしていたシュシュの方へと視線を向けた。
『お前さんは、ジョーカーの息がかかった霊を間接的にとは言え祓っとる。その時に俺のこともそいつに伝わったじゃろうし、もし何かを試しとるなら、多少力がある相手の方が実験には打ってつけぜよ。だから特に気を付けんしゃい』
仁王の言葉が、まるで肌を這うように蘇る。そのぞくぞくした感覚に、ネロを撫でる手が思わず止まる。彼は片目を開けて不満そうに彼女を見上げた。ごめんねと謝って唯の手が再び動き出す。
一度に色々な話を聞かされて、何だかとても疲れたような気がすると、寝息を立て始めたネロを見つめながら、唯も急速な眠気が襲ってくるのを感じていた。
ゆっくりと姿勢を変えると、膝の上で丸まったネロが抗議の声を上げながらも、素直にベッドカバーの上に降り、そこで丸くなる。
唯もすぐ隣に横になった。とろとろとした睡魔もネロの規則的な寝息も手の平の中にある紙の感触も何もかもが、まるで水飴を引き延ばすかのようにゆっくりと彼女の中で細く糸を引いた。
やがて、彼女の全身を覆ったそれは、どこまでも深く暗いところへ拱いていく。
彼女は深く息を吐き出して、誘われるままゆっくりと瞳を閉じた。