
走り書きされたメモを片手に、唯は見慣れない道を一人で歩いていた。
時刻は、十四時半を過ぎた辺りだ。屋上にいた時間は、長いようで実のところはそうでもなかったらしい。
母親には、絵の様子を見てから帰るとさっき電話を入れたが、朝の時点で体調がまだ奮わない様子を十分見られていたため、当然ながら酷く心配された。
嘘をつくことに抵抗は勿論あったが、それ以上にこの先で自分を待ち構えているものが、今の彼女にとっては一番重要だった。
まだ随分と明るいが、人気という人気のない住宅街の路地を、メモと照らし合わせながら彼女は進んでいく。
唯よりも十五分ほど先に学校を出た仁王は、当然だが既に家に着いているはずだった。
彼と一緒に下校することを躊躇ったのは、他でもない唯のほうだったが、こうも似たような家並みが続くと、やはり途中で合流した方が良かったのかもしれないと思いつつ、何度目か角を曲がった時、彼から聞いた外観とそっくりな家を見つけて、思わず小走りで彼女はその家の前に立った。
表札らしきものはなかったが、門扉の片方が、丁度人一人がすり抜けられるほどに開いている。唯は誘われるように門を抜けて、扉の前で立ち止まった。
そして、インターホンへ手を伸ばしかけたところで、突然扉がひとりでに開き、彼女は驚いて思わず半歩後ろへ下がった。
「丁度、窓からお前さんが来るのが見えた。入りんしゃい」
門扉と同じくらいに開かれた扉を抜けて、彼女は玄関の中に足を踏み入れる。
出迎えた仁王は、変わらず制服姿のままだった。
唯が他人の家に来たのは、実に久しぶりだった。
というよりも、小学校卒業と合わせて転校し、中学へ上がってからは、友人らしい友人も作らずに最終学年まで来てしまったために、実のところ唯にとっては、この仁王の家が、中学生活において初めて訪問した家ということになる。
他人の家の空気は、自分の家とは違うと良く言われるが、本当にその通りだと彼女はさながら借りてきた猫のように縮こまってリビングのソファーに座り、彼が部屋に戻ってくるのをじっと待っていた。
色が足りない。
仁王の家に一歩足を踏み入れた瞬間に、彼女がいの一番に感じたのはそれだった。
玄関からリビングまでの動線の範囲内しか分からないが、別に室内自体が殺風景過ぎるわけではない。勿論、今彼女が座っているソファーの周辺もとても綺麗に整頓されていた。
生活の色はちゃんとある。それでも名状しがたい色彩の不足を感じて、唯は居心地の悪さを覚えていた。
違和感についてずっと考えていると、一つだけ気付いたことがあった。造花も含め、花の類がこの場所には一切ないのだ。唯にとってはごく当たり前過ぎて意識したことがなかったが、もしかすると普通の家では、花を置く習慣がそもそもないのかもしれない。ふと、そんなことが彼女の頭をよぎった。
このことは多少なりとも居心地の悪さに影響を及ぼしているのは間違いなさそうだが、根本的な理由は他にあるはずだと思い起こしたところで、廊下に続く扉が開く音に彼女の思考は一旦止まる。
仁王はリビングに入ってくると、唯の前にグラスを置いて、向かい側へ腰を下ろした。
「てっきり何だかんだで来んかと思っとったぜよ」
そう切り出した仁王に唯は答えず、目の前のグラスに手を伸ばした。
焦げ茶色の飲み物に、適当に砕いた氷がたっぷりと入っている。色合いから烏龍茶あたりかと思いながら口に運べば、やたらと煮出した苦みのある紅茶の味が広がった。
緊張からくる喉の渇きを覚えていたが、思わず一口目が喉を通り抜けたあと、グラスに口を付けたまま、彼女は二口目を続けて嚥下するか躊躇した。
唯の変化には気付かないまま、同じく一口飲んだ瞬間、これでもかというほどの渋面を浮かべた彼の様子から、こういうものを普段作るのに慣れてないのだろう。
「無理して飲まんでも良いぜよ。と言うか、淹れ直してくるナリ……」
「あ、大丈夫です。ガムシロか砂糖あれば貰えますか?」
唯の返事に、仁王が無言でガムシロップとスプーンを差し出す。
しばらく二人の間には、会話の代わりに唯がグラスをステアする軽やかな音が響いていた。
「もう一度聞くが、本当に良いんじゃな?」
早々に自身は紅茶を放棄した仁王が、真っ直ぐに彼女を見て言った。
唯は手を止め、ゆっくりと頷く。
「はい。そのために来ました」
「分かった。お前さんが聞くと決めたなら、俺も話すことなら沢山あるが、まずは、今一番問題になってることから始めるぜよ。こっくりさんのやり方を簡単に説明してみんしゃい」
「え?」
まさかこのタイミングで、またこっくりさんに話題が回帰すると思ってなかった唯は、一瞬目を白黒させたが、仁王が至って真面目な目をしていたので、聞き返すことはしなかった。