
微かに甘い香りがした。
それは、丸井から漂ってきた人工的な甘さではなく、鼻腔に入った途端に一瞬にして全身に染み渡り拡散すような、とても優しく柔らかい香りだった。
深く深く吸い上げると、膨らんだ肺の内側に雨上がりの瞬間に感じる空気の香りも僅かに残った。彼女は、この香りを良く知っている。
「……ん」
ゆっくりと瞳を開けば、蒸気機関車が吐き出したばかりのような、白く幾重にも膨らんだ雲の中へ、太陽がちょうどその身体を潜り込ませるところだった。
一瞬にして自身や周囲の彩度が、ワントーン暗いフィルターを通したように転換する。
風が頬にかかった髪を吹き流したところで、唯はここがまだ屋上で、かつ自分がウッドベンチに仰向けに横たわっていることを理解した。
少し身体を身じろげば、すぐ近くに花壇が見えた。
緑化委員が企画、制作したものと彼女は聞いている。唯もスケッチで度々世話になっている場所だった。
彼女の一番近い所に植えられていたのは、まるで蝶が留まり羽をゆっくりと羽ばたかせた瞬間を象ったような花びらの群れだった。淡いピンク色の花からあの甘い香りが漂ってくる。
花びらの先に溜まった水滴が、風に吹かれて次々と零れ落ちる。どうやら水をやったばかりらしい。
スイートピー。彼女は思わず小さく漏らしてからゆっくりと身体を起こした。
ばさりと唯の身体を伝って、何かがコンクリートの上に落ちた。何だろうと、まだ若干靄ががった思考のままそれを見て、反射的に急いで拾い上げる。
男子のブレザーだ。思い当たる持ち主は一人しかいない。
「気分はどうじゃ?」
いつもと変わらないのんびりとした声に、真っ先に怒りを覚えたのは、彼女にしては非常に稀なことだった。
それでもその怒りの矛先は、彼だけではなく彼女自身にももれなく向けられている。
仁王のブレザーを無意識に強く握り締めていたことに、はっと気付いた彼女は、慌てて手の力を緩めると、ブレザーに残った皺を伸ばした。
「飲みんしゃい」
いつの間にかすぐ近くに立っていた仁王が、唯にミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。だが、彼女は受け取る様子を見せない。
仁王は、はぁと短くため息をつくと、彼女の手からブレザーを引き抜き、代わりにとペットボトルを握らせた。
「もう大丈夫なはずじゃろう。顔色もすっかり良くなっとるが、飲まんと今度は脱水症状を起こすぜよ」
仁王の言う通り、今まであったあの異常なほどの喉の渇きはすっかり癒えていた。
渇きだけではない。この数日間、彼女を襲っていた異常な倦怠感も、まだ僅かに余韻こそ残っていたが、嘘のようになくなっていた。
唯は言われるまま、無言でキャップを捻り口を付ける。
少し飲んで口を離そうとして仁王の視線を感じ、気まずさにそのまま飲み続け、ようやく一息ついた時には、半分以上が空になっていた。
それに満足したかのように彼の視線が剥がれていく。
「どうして……」
彼女の続きの言葉は、同時に吹き抜けた一陣の風に掻き消えた。
「もう、お前さんの身体の方が限界だった以上、ああするのが一番確実だったぜよ」
「でも、もう少しだった。あと少し時間があれば」
「無駄じゃ」
ぎしとウッドベンチが悲鳴を上げる。仁王が彼女の隣に腰を下ろしたせいだ。
そして彼もまた同じようにペットボトルを開けると口に付けた。彼の手元で弄ばれているキャップが、くるくると踊っている。
「確かに一時的には、な。あれは、それで終わらんぜよ」
「終わらない……?」
「あぁ、お前さんは、あいつらの無限に湧き出る欲求を満たしてやっただけに過ぎん。お前さんが少し掬い上げたぐらいで、その水かさが減る訳でも、ましてや枯れ果てるまでそれを続けるのは不可能じゃき」
仁王が、自分のペットボトルを傾けた。残った水が、細い糸のようになって地面に落ちていく。
ばしゃりと地面から跳ね上げる水滴が、仁王と唯の靴先に散った。
「いずれ湧き出た欲求は、器から溢れて、周りを巻き込む。それに飲まれてかろうじて生き残ったとしても、今度は周囲の人間に波及する。そのままお前さんを食い潰したあとは、同じような人間を探して繰り返すだけじゃ」
「そんな。私はただ」
ただともう一度呟いて、唯は押し黙った。
少し前までは、理不尽な行動を取った仁王を責め立てるいくつもの言葉が浮かんでいたはずなのに、そのどれもが、倦怠感と共にどこかへと消え失せてしまっていたのだ。
今は激しい後悔と畏怖の念だけが、彼女の中で逆巻いていた。
「お前さんが、責任を感じる必要は全くないぜよ」
まるで彼女の心を見透かしたように、仁王が口を開く。
「先に手を出してきたのは、あいつらの方じゃ。ただ、お前さんは、何も分かってもいないし、そもそも何も知らないからのう。だから相手に求められるまま素直に答えた。安心しんしゃい。お前さんが取った行動は、いわば本能的なものじゃ。が、あれは生きている人間とは違う。お前さんが今生きている以上、求めるのも、それを埋めるのも、全て自分と同じ生者に対して向けんとならんぜよ。死者には弔いの念こそ与えても、選別もせず感情だけで行動すれば、結局損をするのは自分だけじゃ」
そこで一旦彼は話を切った。
目を伏せて、浅く息を吐く。その仕草は、まるで言葉を選んでいるかのようだった。
「俺はまっぴら御免じゃが、お前さんの言う説得も、元々そういう知識や能力を持った人間がやってこそ初めて意味を成す。今のお前さんには、ただの自殺行為じゃ」
空になったペットボトルを潰しながら、仁王はそこまで話すと急に黙り込んだ。
一体どうしたのかと、唯が彼の方を見れば、彼は再び目を伏せて思案している。先程以上に酷く迷っている様子だった。
これまでの仁王とは大分雰囲気が違う。それに随分と饒舌だと、そんな奇妙な感覚を覚えながら唯は不安げに話を聞いていた。
「お前さんに憑いとったやつから、これが出てきた」
仁王がおもむろに制服のポケットから何かを取り出した。良く見ると手の平に乗るほど小さく、あのいつもの薄紙に包まれていた。
彼はそれをそっと開くと、唯にも見えるように指に挟んで空に翳す。
「それ、十円玉ですか? あっ!」
瞬間、彼女の頭の中を駆け巡った思考に、まさかという顔で仁王を見れば、彼はただ静かに頷いた。
そして同時に、雲を振り切るように太陽が顔を出し、十円玉を鈍く光らせた。