
――たすけて。
「に、おうくんっ! 待ってっ!!」
ばしゃりと水が呻き声を上げる。
旋回する炎は速度を増し、微かにぱちぱちと音を立てていた。その軌跡は、まるで唯のことを籠の中に閉じ込めるように、ぴたりと彼女の身体に沿って動き回っている。
このままでは、仁王は彼女の話に耳など貸さずに強硬手段に出るだろう。そう思った唯は、何とかその炎の輪の中から抜け出そうと、視線を巡らせる。
ぐらりと視界が明滅した。彼の話の通り、もう身体が限界に近づいているようだ。左耳に響く甲高い悲鳴に混じって、自分に助けを乞う声に彼女は思わず仁王に向かって叫んだ。
「仁王くん! お願い、私の話を聞いて!」
炎が彼女の身体のすぐ近くを飛び抜けていく。
狙う先は、間違いなく彼女の左肩に乗っているものに向けられていた。何とか身体を傾けてそれを避けるが、仁王たちのように元々体力に自信があるわけではない。この様子では、彼女の抵抗など僅かにも持たないだろう。
せめて少しでも彼と話が出来る時間さえ持てればと、仁王に必死に呼びかけるが、彼は無表情のまま唯を見ているばかりだった。その目が、言葉の代わり話すことなどないと言っている。
浅く吐き出した自分の呼吸音が、すぐ耳元で聞こえる。息は上がり、視界がまた明滅した。
「ほたえなや。お前さんの体力の方が危ない。そのままじっとしときんしゃい。すぐに済ませるぜよ」
ひゅんとまた炎の一つが通り抜けた所で、彼女はとうとう身体のバランスを崩し、その場に倒れ込んだ。
更に別の炎が、それを見逃さまいと唯に迫りくる。
「……ないで」
「!」
「近寄らないで!!」
唯が叫んだ瞬間、目の前に迫った炎が、まるで彼女の叫びに射抜かれたように弾け飛んだ。
青い炎の残骸の一部が彼女の頬に触れ、ひんやりとした余韻を残す。
突然起きた出来事にただただ驚いて目を見開いた唯は、左肩に食い込んだ複数本の指の感触にはっとして、ふらつきながらも急いで立ち上がった。
全身を覆う倦怠感が益々増したのを感じながら、すぐにでも崩れ落ちそうな身体に必死に力を込め仁王を見る。
そんな唯の行動が、仁王には余程気に入らなかったのか、彼は益々険しい表情を浮かべていた。
「あまり下手に動かれると手元が狂う。とっとと終わらせんとのう」
そう言って、仁王がまた黒い名刺入れに手をかけた。その様子を見ていた唯は、てっきりあの薄紙が出て来るものと思っていたが、彼女の予想に反して彼が取り出したのは、薄紙と同じ大きさの薄く透明なカードだった。
彼はそれを薄紙を使う時と同様に、右手の人差し指と中指の間に挟むと、何事かを呟く。
そして、左手の指先で、そのカードの表面を弾いた。
(な、に……こ……れ?)
一体何が起きたのか、唯自身にすら全く分からなかった。
身体はおろか指の先すら、まるで痺れたかのように感覚が無くなり全く動かせない。周囲を旋回する炎が空を切る音が生々しく彼女の鼓膜に飛び込んできた。
離れた所に立つ仁王が、再びカードを弾くのが見えた。次の瞬間、唯の全身から力が抜け、その場に座り込むように崩れていく。
周囲を舞っていた三つの炎はいつの間にか一つになり、唯の眼前で揺らめいている。昼間だというのに綺麗な蒼い色を灯しているそれは、見ている者をまるで惹きつけて止まない力を宿しているようにも思えた。
「に……お……く、ん……ま、っ……」
彼の指先がすっと唯の左肩を狙って伸ばされる。彼女の必死の叫びも、仁王には届かない。
そこから先は、まさに一瞬の出来事だった。
炎は、彼女が瞬きをする僅かの間に黒い影を貫いていた。
左肩に電流を流されたような衝撃を感じ、唯は思わず声にならない悲鳴を上げる。
不規則に蠢いていた影はその動きを止めたかと思うと、唯も良く知った少女の形になる。その手がこれでもかと唯の肩を掴んでいたが、やがてがたがたと震え出した。
必死に言葉を紡ごうとするが、唯の口から洩れるのは、乾いた息遣いばかりで、勿論身体は未だに頑として動かない。
やがて、少女の影が風船のように一気に膨らんだかと思うと、唯の目の前でそれは弾けた。
ぴしゃりと水滴が彼女の頬に触れたのを感じた次の瞬間には、影の破片は全て消え失せ、彼女の身体がふっと軽くなる。
なすがまま倒れ込んだ唯を、彼女の近くに歩み寄ってきた仁王の長く伸びた影が覆い隠した。
言いようのない暗い淀みが、彼女の心をひたひたと満たしていく。
その矛先を向けるべく、頭を上げようとしたが、急速に遅い来る倦怠感に再び身体の自由が奪われていく。
頬に少し熱を帯びたコンクリートが触れる感触を味わい、とうとう意識すら弛緩していくのを感じながら、唯は今までこんなにもただただ自分のことを恨めしく思ったことはなかった。