
少しの間が空いて、突然唯が軽く咳込んだ。
喉元を抑えながら、鞄から殆ど空になったペットボトルを取り出す。キャップを捻ろうとして、それを制止したのは仁王だった。
「駄目じゃ。それ以上水を飲ませるわけにはいかんぜよ。お前さん自身が良く分かっとるはずじゃ」
「でも、すごく喉が渇くんです……それに、水が欲しいって、ずっと言ってる」
唯は手中のペットボトルを握り締める。ぺきという軋む音が響く中、彼女は激しくまた喉の乾きを覚えて再び咳込んだ。
「だから、声が聞こえるようになったら注意しろと、あれだけ警告してやったのにのう。お前さん、そのまま一緒になるつもりか」
「一緒、に?」
「気づかんのか。その子供の振りしとる奴と、お前さんの境界線が、もうかなり薄くなっとる。このまま進めば、いずれそいつらに取って代わられるか、憑り殺されるぜよ」
相変わらず、全てを切り捨てる冷たい言い方だが、その内容の不穏な響きにさすがの唯も反応を見せる。戸惑ったように彼女の瞳が左右に大きく揺れた。
「それは子供なんかじゃない。見てみんしゃい」
仁王がおもむろに屋上に備え付けられていた庭園用の水道を捻った。そのままバケツに溜めた水をコンクリートの上に撒き散らせば、程なく小さな水たまりが出来上がった。
そこには不鮮明に千切れた像となった唯の姿と、その肩の上に乗るはっきりとした少女の上半身が映し出されている。水越しに少女と唯の目が合った。にこりと微笑みかけられて、思わず彼女も口元を緩ませたところで、再び仁王が駄目だと鋭く指摘する。
「長く一緒に居過ぎたみたいじゃな。そいつに心が傾きかけとる」
ゆらりと揺れる水面に仁王の姿が映り込む。そして、水たまりの上に彼は、先日彼女の足の手当をした際に使った薄紙を浸した。
完全に水を吸った紙は透明になり、まるで水の上に黒い文字だけが浮かんでいるようにも見えたが、まもなくそれも水の中に溶け込んでいく。
そして、次の瞬間、水の中にある少女の像だけが歪み出した。そのまま人の形は崩れ、黒い靄の塊のようになったそれは、蠢きながら人の形を模しては、再び靄状に崩れていく。幾度か同じことを繰り返したのち、諦めたようにその動きを止めると、最終的には子供から大人までとその大きさは様々だが、幾本もの人の腕が伸びている黒い靄が、唯の左肩を覆い尽くしていた。
更に、その全ての腕は、しっかりと唯の身体を掴んで離さない。
「……とっくに知ってました」
水たまりを見つめながら呟いた唯に、仁王は意外そうな目をした。
「知ってました。女の子だけじゃなくて、何人もこの中にいるのも知ってました」
「それなのにここまで放っておいたんか。馬鹿かお前は。何も知らない人間が、どれだけ危険なことをしとるか、分からんにも程があるぜよ」
「それも分かってる!」
殆ど悲鳴に近い唯の声が、仁王の言葉を遮る。
口を開く事すら相当身体に堪えるのか、彼女は肩で大きく息をしながら、青白い顔を仁王に向けた。
「あの髪も使いました。でも、あれを使って一人目が消えた時、やっと分かったんです」
唯はそのまま仁王を真っ直ぐに見る。彼女のは、彼に対して何かを訴えるかのように、益々強い光を放っている。
仁王は逆に押し黙って、ただ彼女を見つめ返していた。
「一番最初の切原くんたちのこっくりさんの時から、何かおかしいと思ってた。けど、それが何なのか分からなかった。私だって自分の身を守るのに必死だったし、あの髪がどういう意味を持つかなんて考えたことがなかった。ううん、考えないようにしてた」
いよいよ喉が限界に近くなってきたのか、徐々に彼女の言葉の掠れは酷くなり始めていた。今目の前にある水たまりの水ですら、身体が強烈に欲している。すぐにでも手で掬い上げてしまいたくなるのを必死に堪えながら、吐くような思いで彼女は口を開く。
「仁王くんの言う通り、私はこういうことに対して全然分かってない。でも霊が見えるようになって、でも、見た目は自分と全然変わらなくて、本当はすごくすごく怖かったけど、全部が全部、自分に敵意を向けてくるわけじゃないってことが分かってきた。だけど、声まで聞こえるようになってからは、益々生きてる人と同じにしか見えなくて……あの中の一人に襲われて仕方無く髪を使った時、今まで聞こえなかった彼らの悲鳴を初めて聞いて、この髪の本当の怖さを知った。これは、これは言葉はすごく変だけど霊を殺す力を持ってる。ナイフと同じだよ。刺されたら苦しいし、痛い。私がしたんだって、そんなこと考えたらもう使えなくなった」
「……何を言い出すかと思えば。だから、黙ってそいつの話に耳を傾けたとでも言うんかのう」
「話を聞こうと思った。きっかけを見つけて、もし穏便に済む方法があるなら……」
「穏便? 話にならんぜよ。その結果、そいつがそこまで肥大化したのは、他でもないお前さんが原因じゃ……もういい、お前さんがやらんなら俺がやる。これで丸井たちの分の借りは返すぜよ。剥がす時、多少痛いかもしれんが、我慢しんしゃい」
次の瞬間に、唯は自身の周りにあの青い炎が、いつの間にか旋回していることに気が付いた。
床に広がった水たまりの水面が、不自然に波打ち始める。
唯の肩に張り付いた靄は、今や水を通さなくともはっきりと本来の姿を見せていた。