
この分では到底集中など出来そうにないと唯は諦めて、結局使われることのなかった机の上に並んだパレットや筆を片づけていく。
そしてイーゼルに手をかけたところで、改めてキャンバスを見つめれば、切り出された世界の中、いまだにぼやけたままの自分の姿がそこには佇んでいた。
いつもより浅く水たまりに沈むペットボトルを引き上げて口を捻る。そのまま一口だけ飲むと、簡単に荷物をまとめて美術室を出た。
この時間に帰宅するのは最近では珍しいなと思いながら、まだ明るさの残る廊下を足早に進む。
手にしたペットボトルは冷たさを留めていて、すぐにボトルの周囲には新しい結露が付き始めた。
「あっ!」
慌てて伸ばした指先がボトルの縁を掠めたが、そのままそれは地面に吸い込まれるように、彼女の視界から消えていく。
水で滑り思わず取り落としたペットボトルが、地面に転がるのと同時に勢いよくキャップが弾け飛んだ。どうやら緩く閉めてしまっていたらしい。
転がっていくボトルに沿ってライン上に廊下が濡れ、それが止まったところで、いよいよ小さな湖のようにミネラルウォーターが楕円状に広がっていく。
「うわ、最悪」
慌ててペットボトルを拾い上げるが、既に半分以上が流れ出た後だった。キャップは止まることなく、そのまま廊下をゆっくりとした動きで進み、やがて壁に当たるとこつんと小さな音を立て、その場で二、三度円を描いた後に倒れた。
床にこぼれた水を拭うために、ハンカチを鞄から取り出して唯がしゃがみこんだ瞬間、彼女の身体で遮っていた一筋のまだ夕日とも呼べない日の光が、偶然にも水たまりの上に降りかかった。不鮮明ではあったが水面に唯の顔の像が結ばれる。まるで鏡みたいだと、何となしに彼女は吸い寄せられるように覗き込んだ。
そして、自分の姿と合わせて映り込んだものを見て、彼女の全身が一瞬にして凍る。それでも水鏡からは目が離せなかった。やがてゆらりと水の中のそれが形を成していく。
同時に覚えのある視線を感じて、気が付いた時には唯は後ろを振り返っていた。
レギュラージャージを着たままの仁王は、ちらと教室の時計に視線を向け、余り時間がないと軽く舌打ちをする。
今頃、他のメンバーたちは、柳が組んだ個人練習メニューに汗を流しているのだろう。
まだ本調子でない幸村の代わりに、現在も部をまとめている真田の目を誤魔化すのは既に慣れたものだったが、柳、あるいはダブルスパートナーである柳生比呂士は、こうして度々、人目を盗んでは部を抜け出している仁王に間違いなく感づいている。
それでも二人が、仁王のこんな不可解な行動を幸村や真田に報告しないのは、まだ彼らの許容する範囲内だからなのだろう。だが、この調子で続けていれば、それを越えるのも時間の問題かもれしない。
(動きにくくなるのは、面倒じゃのう)
柳生はともかくとして、柳に関しては非常に嗅覚の利く男なだけに仁王もそのリスクを承知してか、出来る限り駆け引きはしたくはない相手だった。
無論、仁王が少々本気を出せば、イーブンに持ち込むことは造作もない。だが、それを良しとしないのは、他でもない彼自身だった。
(悪いのう。参謀)
再び時計の針を確認し、彼は薄暗い教室内を音をたてないように静かに進んでいく。やがて、教卓へと辿り着けば、そのまま後ろに回り込み仁王はしゃがみ込んだ。
丁度影になっていて、一目では分からないような机の足の部分に、巻き付けていたはずのものの存在を確かめるべく指を滑らせる。
「ここもか……」
差し込む斜陽に照らされた人差し指の先が、黒く染まったのを確認してぽつりと仁王は呟く。親指と擦り合わせるようにすれば、それが煤であるのは容易に分かった。
「一体、誰がやったのかのう」
気に入らないと言うように、棘を含んだ声色を吐き出しながら、仁王は煤けた指先を見つめる。
空き教室や保険室、屋上を初めとして、これで彼が施した全ての場所が同じ状態になっていた。これを売られた喧嘩と理解している仁王は、ぎりと奥歯を噛み締めて苛立ちの表情を浮かべたが、次の瞬間には何事もなかったかのようにその顔は無表情に戻っていた。
この状況において、彼が思う一番の疑問は、一体誰がこんなことをしたのかと言うことだけだ。
思い当たる人間なら数名いる。だが、その誰もが、能力的にもリスク的にもこんな芸当を仕掛けるとは思えなかった。
次々と脳内に浮かんでは消える顔の中で、ふと、一人の少女が浮かび上がった。
(確かに可能性は無くはないが、無川にはまだ無理じゃ)
思考を払拭するように、煤をジャージの目立たない場所で拭って仁王は立ち上がる。
もう一度仕掛け直そうと教卓へ手を伸ばしたが、はたとその手を止めた。今ここで、自分が相手の挑発に感づいたことを知らしめるのは、非常に簡単なことだが得策ではないと思い直す。売られた喧嘩は買う主義だが、今買うにはまだ時期尚早だ。
そのまま、ちらりと自身の背後にある黒板へと仁王は視線だけを向ける。
そこから一本の白い手がふわふわと揺れながら延びていた。繰り返し迷うような動きを見せながらも、やがてその手は彼の肩にそっと置かれた。
「触るな。今、かなり機嫌が良くないんでのう」
ナイフのように言葉を投げつければ、手は、すっと肩から離れて黒板の中へ消えていく。
煩わしそうに肩を軽く手で払った仁王は、三度時計を見ていよいよ時間切れだと心中で呟くと、足早に教室を後にした。