
順調に筆が進む度に、彼女の気分も自然に高揚してゆく。
今日の目標としていた工程はとっくに終わっていたが、まだ唯の筆を走らせる腕は止まらない。このペースで進めれば、夏の絵画展への出品には十分間に合いそうだ。
本日最後の仕上げにと、細筆に含ませた絵の具で更に描き込んでから、少し離れたところで絵全体の様子を見る。
背景はともかくとして、作品の主体となるべき人物像が、まだおおよその輪郭しか出来上がっていない。ここ最近の不調ぶりからすれば、これでも大分進んだものだ。
春先に発表された今年のテーマは『自画像』だった。
構想こそ完成していたものの、まだ絵の中での自分の最終的な表情を彼女は決めかねていた。ある程度の修正がきくとは言え、表情が決まらないうちに描き出してしまうと、仕上がった作品はその迷いが違和感となって必ず滲み出てしまう。そのため、彼女は未だに人物の部分を描き出せずにいる。
筆を置き、大きく一息つきながら両方の手の平をじっと見つめる。これは、何かに酷く集中した後の彼女の癖でもあった。
そのまま腕時計に視線を落とし、気分が良い内に今日は終了してしまおうと、唯は帰りの準備を始めた。
ふと喉の渇きを覚えて、部室に来る前に買ってからそのままにしていたミネラルウォーターの存在を思い出し、彼女は視線を泳がせる。すぐに目的のものを捉えれば、喉の渇きは加速した。
ペットボトルの周りに滲んでいた水滴が、木製の机で水たまりを作っている。ボトルに触れれば、まだ大分冷たさの残るそれが、ぴちゃりと音を立てて机から離れた。
髪や制服が濡れるのも構わずにそのまま額へと押しつければ、火照った体温がペットボトルに吸われていく。唯はその心地良さに喉の渇きをがすっと引いていくのを感じながら瞳を閉じた。
そうしてから、肺に溜まった空気や先程まで自分の全てを注ぎ込んでいた絵画など、あらゆることを自分の身体から追い出すように、深く深く息を吐き出した。
「……?」
ふと、唯が目を開く。誰かの視線を感じたためだった。
きょろきょろと周囲を見渡すが、勿論、美術室にいるのは人ならざるものも含めて、彼女ただ一人だ。
「気のせいか」
開け放たれた窓から吹き込む風が、緩やかにカーテンを揺らしている。
唯は首を捻りながら、残りの片づけをするべく立ち上がった。
(また、だ)
美術室に向かう足を止めて、唯は耳をそば立てる。
一分ほどそうしてみたが、特に聞こえてくるものもないことを確認した彼女は、再びその歩みを開始した。
やたらと視線が自分に注がれていると気がついたのは、つい先日のことだ。
それは美術室から始まり、今では授業中や自室など、場所や時を問わず感じるようになっていた。
霊からの接触と見て間違いないだろうが、幸いにも相手からは悪意のある印象は受けなかったため、彼女もさほど気には留めていなかったが、こう数日も続くけば、そこまで執着する特別な理由でもあるのかとさすがに気になって仕方がない。
仁王に相談することも考えたが、今は視線を感じるだけで、特別不自由をしているわけでもない。そして何より、彼は唯からの接触を快く思っていないのは周知の事実であり、結局のところ彼女から声をかけるのは憚れた。
悪意を感じないにしろ用心に越したことはなく、シュシュは絶対に手放さずに、纏わりつく視線も必要以上に意識しないように心がけていた。
放課後が訪れて、美術室へ向かう彼女をいつものように視線だけが追いかける。そして、彼女が室内に一歩足を踏み入れた瞬間、視線はふつりと途切れた。これまでと変わらずに、気にせず作業へと取り掛かる。
美術室に姿を見せる唯以外の部員は、これまで以上に少なくなっていた。制作に集中するために、自宅に持ち帰って仕上げている者もいるのだろう。
イーゼルを窓際へと運び、絵の状態を指先で軽く確かめる。よしと意気込んでペーパーパレットを一枚めくった所で、再び視線を感じた。
今日だけで何度目だと彼女が思った時には既に遅く、折角練り上がった集中力が一気に萎んでいくのと同時に、僅かな苛立ちが彼女の中で沸々と泡を立て始めていた。
唯にしては乱雑にパレットを畳むと、視線を先を手繰るように目で追う。すぐに出所は美術室の扉の先、廊下からだと気が付いた。
そして、もう一つの違和感を覚える。視線が纏う雰囲気が少し変わっていた。
これまでは、例えるならば、彼女のことを遠くでただ傍観しているだけのような、その行動に意図は微塵も含んでいなかったものに対して、今は何を強く求める懇願という感情が滲み出している。
何故ただの視線からそのように感じ取ったのか、彼女自身にも理解し難かったが、少なくともこれではっきりしたのは、仁王からどう言われたとしても、やはり一度相談するべきだということだった。