
鴉の件はあっという間に校内に広まり、ちょっとした騒ぎになった。
腕を切った少女は、治療を受けるため病院へ向かうべく早退し、割れたガラスには取り急ぎベニヤ板とビニールで目隠しがされた。
教師たちは、裏でこそ本件について緊急ミーティングを行うなど、慌ただしく動き回っていたが、表では冷静に生徒と接し、三年B組は一時限目こそ自習になったものの、二時限目以降は通常通りの授業が行われていた。
それでも休憩時間には、他のクラスの生徒だけではなく、噂を聞きつけた学年違いの生徒まで廊下越しから教室内を覗き込んでいる始末だった。
鴉が硝子を突き破って飛び込んできたという十分信じがたい話も、生徒間での伝言ゲームを繰り返す内にいつの間にか、生徒同士の喧嘩が原因などと尤もらしいものから、サッカー部員が蹴ったボールが、有り得ない軌道をもって教室まで到達したという若干無理がある話や、果てには、違反者を注意していた風紀委員長が恫喝したら割れたという良く分からないものまで多岐に渡った。
それでも午後になる頃には事の真相も知れ渡ったため、派生した噂話も一先ず収束し、校内は殆ど普段通りの雰囲気に戻り、放課後ともなれば、教室を訪れる生徒も疎らになっていた。
生徒たちは委員会や部活動への参加の為に、次々と教室を出て行く。唯もその例外ではなく、部長として美術室を開錠するという一番最初の仕事が待っている。
彼女が教室を出る時に、まだ残っていた丸井と一瞬目が合ったが、彼の方から先に逸らされた。この様子なら、切原たちと会ったとしても同じような態度を取られるのだろう。
テニス部レギュラーが唯を取り囲むという非日常的な光景は、同じく鴉が硝子を突き破ったという、これまた更に上を行く非日常の出来事に見事上書きされ、現状の丸井たちの唯に対する態度のこともあり、多くのクラスメイトの記憶からは既に追いやられていた。
他人の不幸が呼び起こしたこの結果を素直に喜ぶわけにはいかないが、少なくとも唯には好都合であったのは間違いない。
丸井の背後で、相変わらず意味ありげに笑みを象った瞳で、唯を見ていた彼にとってもそれは同じだったのだろう。
仁王の言う通りだった。
意外と慣れるのは早かったとシュシュに添えていた手を離して、彼女は何かを振り切るように長く息をはいた。
大多数の人間には見えていないというだけで、意外と至る所に霊というのは存在しているものだ。それは、普段通う通学路や校内、果ては自分の家の中と場所を問わない。
ただ、総じて言えるのは、それらはまるで一過性の雨のように目の前にふらりと現れては、次の瞬間、もしくはしばらくするとどこかに消えてしまっている事だ。
しかも唯が見るそれらの相貌は、先日の目玉や女生徒、ましてや蛇の影のようにおどろおどろしいものではなく、身体が透けているという点さえ除けば、至って普通の人間と何ら変わりない。
仁王からは、彼らの言葉や言動に反応してはいけないと釘を刺されていたが、さすがに扉の先に立っていられたりすると、多少なりとも思わず声を上げてしまうこともあった。だが、その程度ならさして問題はないらしい。
その要因の一つには、まず間違いなく彼女自身が、いまだに彼らの声を聞くことが出来ないうことが挙げられるだろう。
仁王によれば、声が聞こえるか聞こえないかによって、自身が受ける影響には雲泥の差があるらしい。
唯は、確かにと一人ごちる。
少なくとも彼女が良く目にするようになった霊たちからは、悪意はおろか気配や感情といった、己の存在を確立する要素そのものの一切が伝わってこないのだ。まるで、その辺の風景の如く、ただそこに『ある』だけの存在にしか感じられなかった。
ごく稀に何か彼女に向かって話しかけているような仕草を見せる者もいたが、唯にその声が届かないと理解するや否や、すぐに居なくなってしまっていた。
始めの頃こそ、姿を見る度に必死で恐怖を押し殺していた彼女だが、彼らの特徴を少しずつ理解するにつれ、無用な緊張は解けていき、現在に至る。
そして、こっくりさんの際に出会った数々の霊のように、霊感がない者にまで可視出来るものは、どうやらまた別なベクトルのタイプの霊らしい。幸いにも、彼女は今のところあのような危険な目には遭遇していない。
もし万が一に厄介なものに目を付けられたとしたら、その時はこのシュシュに入っている髪を再び使うつもりであったし、不測の事態で髪が消失してしまった時は、仁王から譲ってもらうという話は既についていた。
仁王とは今でも偶に話をする。と言ってもそれは、決まって向こうから唯に接触してきた時だけだった。
大抵がごく短い時間で要件のみと非常に簡潔だったが、今の唯にとっては性格的にも内容的にもそれは全く問題はなかった。
むしろ、彼は唯がテニス部と接触することを明らかに嫌っているはずだ。だが、彼はそんな言葉や態度とは裏腹に『丸井たちの借りを返し終わるまでは』と言う大義名分のもと、今もなお助言をこうして続けているということが、彼女にとっては何よりの疑問だった。
だが、いずれにせよ仁王の言う通り、きっといつかは彼らの肉体なき声が聞こえるようになってしまうのだろう。
未だに腹の内は見えない男だが、彼の気が変わらない限り、ある程度の自分の身の安全は保障されていると思って間違いない。
その間に、この不本意ながら身についてしまった常人には認知され難い能力と、上手く付き合っていけるようにするのが、何よりも唯の目先の目標となっていた。