
間を置かずに影は再び動き出した。
益々蛇を模したように鎌首を擡げるそれは、丸井と唯のどちらを先に仕留めるのか迷っているのか、ゆらゆらと揺れていた。
丸井に突き飛ばされたことで完全に体勢を崩していた唯は、すぐに起き上がろうとしたものの、全身を駆け巡った恐怖がまるで麻酔のように働き、すっかり足の感覚を失ってしまっていた。
意志に反してただ身じろぐだけの身体に、焦りばかりが募っていく。
(動いて、早く動いて……!)
必死に立ち上がろうとするが、がくがくと震える足裏は僅かに地面を擦れるばかりで全く用をなさない。
それに気付いた丸井が、ちらりと背後にいるジャッカルたちの位置を確認した後に影に向かって叫んだ。
「おい、こっちに来いよ!!」
そのまま丸井はジャッカルや唯とは反対の方へ、床を這う影を踏まないように飛び越えながら走り抜ける。
彼の声に反応した影はぐるりと方向を変えると丸井に向かって動き始めた。
「ちょ、お前、早過ぎだろぃ!」
先程よりもずっと速度を増した動きを見せる影を、ぎりぎりで丸井はかわしてふぅと大きく息を吐く。
すぐに次の攻撃態勢に入るそれの動きをじっと見つめる彼の瞳には、唯ほどの恐怖の色は浮かんでいないが、同様に余裕もない様子が見てとれた。
それでも繰り出される全ての動きを上手く読み切っている彼のフットワークに唯は思わずすごいと漏らした。
「さっきの女の方がよっぽど幽霊っぽくてやり難いな。それに……持久戦はジャッカルの得意分野だけじゃないぜ?」
にっと笑みを浮かべた丸井は、影が這っている位置を確認するように視線を巡らせると再び駆け出した。
狭い教室内での攻防は五分以上続いている。
丸井は次々と襲い来る影を順調にかわし続けていたが、既に全身から大量の汗を流していた。彼のブレザーとネクタイが、すぐそばの床へ無造作に打ち捨てられている。
机や椅子といった障害物に加え、影の走る部分には手足を付けられないという制約がある。さすがの彼も相当の体力を消費しているようで、こうして今も丸井の顔からはぽたりと汗が滴り落ちていた。
「ホント、赤也の誘いはロクなことがねーぜ。菓子一ヶ月分でも割に合わねぇだろぃ」
それでも疲れた様子は見せずに、丸井は汗で顔に張り付いた髪をかき上げると、次の影の攻撃に備えて机を足場にしながら再び足を踏み出す。
彼が時間を稼いでいるその間に、ようやく足の感覚を取り戻した唯は、ジャッカルが手招きする方へ移動しようとしていた。
未だ目の前で脈打つ影を飛び越える寸前に聞こえてきた、机が倒れる音に彼女が丸井の方を見れば、彼がいよいよ壁際まで追い詰められていた。
(やべぇ、もう逃げ場がねぇ……!)
焦りの色を浮かべる丸井にじりじりと影が迫る。
気を引くために今度はジャッカルが声を上げるが、影は完全に丸井のみをターゲットに絞っているらしく動く気配は見られない。
影は丸井の顔のすぐ目の前まで迫っており、このままでは彼が影に飲み込まれるのも時間の問題だった。
(ど、どうしたら……)
思わず両手をぎゅっと握り締めた唯は、未だにあの髪の毛が手の中にあったことを改めて思い出す。
その瞬間、ある考えが彼女の頭に浮かぶのと同時に自然と腕が動いていた。
「上手く、いっ、て!」
そのまま目の前を這っていた影に向かって唯は髪の毛を突き立てた。
ふるりと波紋の如く影が波打った後、そこからガラスにひびが入るように亀裂が走る。
「……っ!! 何だこの音っ!!」
影の至近に居た丸井が両耳を押さえて顔を歪ませる。ジャッカルも唯も同様にこの甲高く頭の中を引っ掻き回すような音に顔を顰めた。
唯にはこの音に覚えがあった。あの目玉と対峙した時に聞いた、彼らの断末魔の叫びだ。
それでもこの髪に絶大な効果があることを改めて理解した唯は、耳を塞ぎたくなる衝動を抑え、再び突き立てるべく髪の毛を影から引き抜いた。そしてもう一度振り下ろそうとして目を見張る。
先程まで針の如く固くなっていた髪が、元のようにへたりと唯の手に張り付いていたのだ。
これではもう、自分の手が影に触れるのを覚悟の上で次の行動を起こさなければならない。
彼女は一瞬躊躇し、それが相手に隙を与えることになった。ぐるんと影が唯の方へ向きを変え、今までにないほどの速さで迫ってきたのだ。
気付いた時には、彼女の目の前はぐにゃりと歪む深い闇しか見えなくなっていた。頭が割れてしまいそうなほどの耳障りな音に意識を持っていかれそうになる中、丸井とジャッカルの叫ぶ声がずっと遠くで響く。
間もなく冷たい汚泥の中に突然放り込まれたように息苦しくなり、唯の身体は一切の自由が利かなくなった。
耳の奥で鈍く反響する心臓の鼓動が、急速に緩やかになっていき、それとは反対に四肢はばらばらになりそうな勢いで引っ張られる。
唯が影に食われたと理解したのは、それからすぐのことだった。
「い、やだ! 離れ、てっ!!」
無我夢中で唯が声にならない声を上げながら、満足に動かない四肢で暗闇を必死に掻く。既に上下左右の感覚はなく、丸井たちの声も聞こえなくなっていた。
急速に増長する恐怖の中、それでも叫び続けていると、ふいに彼女を中心として影に無数の亀裂が走った。
空気が自ら飛び込んできたかのように肺が膨らむのを感じ、彼女はたまらず大きく息を吐き出す。闇の中でそれが白い泡を模して弾ける先で見た、指先に絡まり巻き付くあの髪から、一瞬ばちりと爆ぜる音が聞こえたかと思うと影が亀裂に沿って次々に引き裂かれていく。
再び教室内の光景が網膜に鮮烈に映り込み、四散した影が床をするすると這ってどこかへと消えていくのを見ながら、ぐらりと頭が揺らぐような感覚を覚えて唯の身体はそのまま床へと崩れ落ちた。