カレイドスコーピオ

インビジブル

03.探し物と嘘 / 1

 雨の日は、キャンバスへの油絵の具の乗りや乾きがが殊更に悪くなる。
 新しいペーパーパレットに手をかけながら、は小雨の降る窓の外を見た。
 空は重苦しい暗雲が蜷局を巻きうねうねと揺れ、時折低く唸るような音も聞こえてくる。携帯電話で見た天気予報では、これから本格的な雷雨になるらしい。
 雨がこれ以上酷くなる前に帰ろうかとも思ったが、出来れば予定していた所までは進めてしまいたかった。
 パレットナイフで絵の具を切り混ぜてみるものの、の思うような色には発色しない。彼女は深く息をつくとパレットを机の上に置き、ほとんど進んでいないキャンバスへと目を向けた。
 しかいない美術室は、時折窓を揺らす風の音以外はとても静かだった。
 他の数少ない部員は、悪天候を見越して既に帰宅の途についている。
 じっと窓の音に耳を傾けていると、やがてこつこつと叩くような音が加わった。とうとう雨が風を孕んで強くなり出したのだ。
 パレットの上に並んだ絵の具の群れは、室内の湿度のせいか薄く皮膜を被った程度にしかまだ乾いていない。
 はいよいよ諦めてパレットの後始末を始めるべく重い腰を上げる。キャンバスに布をかけてイーゼルごと準備室へと運んだ。
 が三年になった時、半ば他の部員に押しつけられるように美術部の部長となったが、籍を置くだけの者を含めても総部員数は十人にも満たない。
 その中で真剣に取り組んでいる人間も、も含めて合同作品よりも個人作品を作ることを望んでいるため、部活動中の美術室は全くと言っていいほど無言だった。
 それでも誰とも無駄な会話をしなくて済む環境は、彼女にとってかえって好都合と呼べるものだった。
 するりと髪を束ねていたシュシュを外す。そのままじっと彼女は手中のそれを見つめた。その中に一週間前閉じ込めたものを再び取り出すことは決してないのだろうと彼女は思う。
 ややあって、はシュシュを今度は腕に嵌め、美術室に鍵をかけた。

 仁王から貰った包みの中身を家で確認し、は思わず言葉を失った。
 紙の内側に丸まるようにして収まっていたのは、一本の黒い髪の毛だった。
 まず初めに気になったのは、これが誰の髪の毛であるかということだ。長さは約十五センチほどで、少なくとものものではないし、仁王の髪の色とも異なっている。
 急にこれが得体のしれないものにありありと感じられて気味が悪くなった彼女は、再び包みを折りたたんで視界からそれを隠した。仁王の言葉がぐるぐると頭を駆け巡る。
 これがお守りなどと、一体彼はどんなつもりでこれを渡したのだろうか彼女は理解に苦しんでいた。
 百歩譲って仁王の髪だったらまだしも、目の前にあるものは明らかに第三者の髪だ。肌身離さず身に着けろと言われても、こんな状況で迷うなというのも酷い話だと彼女は頭を抱えた。
 それでも、が選ぶことの出来る伏せられたカードはこのたった一枚しかない。果たしてそれがエースなのかジョーカーなのか捲るまで決して分からないが、そのカードの上には今も仁王の白い手が乗せられている。
 仮に仁王の言葉を信じるとして、問題はこんなものを毎日どうやって身に着けるかということだった。
 生徒手帳に挟んだままでは、常に身に着けるという条件は満たせない。まさか手首に直接巻きつけるわけにもいかない。さて、どうしたものかと部屋中に視線を泳がせ困っていると、彼女の目は机の上に置いたままにしてあった真新しい青色のビニール袋に留まった。
 手に取って袋を破ると、中からは淡い水色のシュシュが顔を覗いた。伏せられたカードの上から、ゆっくりと彼が手を離していく。
 は包みとシュシュを見比べて小さく頷いた。

 仁王から渡されたものが作用しているのかは確かめようがなかったが、少なくともこの一週間、は不可解なものを見ることもなければ、経験することもなかった。
 勿論、仁王とは教室で会ったとしても、約束通り互いに素知らぬふりを貫いている。
 何よりも双方が望んだ日常に戻れたことに彼女は心底安心していたが、一つだけ心残りがあった。
 それは初めて幽霊を見たことですっかり頭の隅に追いやってしまっていた出来事だったが、あの時見た四つの青い炎が一体何だったのかということだ。もう、今になっては尋ねようがない。
 美術室の鍵を鞄にしまう時に数学の教科書がの目に留まった。担当教師に課題を出されていたことを思い出し、何となく気になってノートを探してみると、目的のものがやはりないことに気がついた。どうやら教室に置いてきてしまったらしい。
 気づくのが自宅に着いてからではなくて良かったと、は教室に寄ってから帰宅することに決めた。

「あれ、何だろう?」

 教室へと続く廊下を足早に歩いていると、その先に何やら赤いものが落ちていることに気付いた。
 距離が縮まるごとにそれの様子がはっきりとの視界に映る。
 一体誰のだろうと拾い上げてみると、それは二つ折りのシンプルな定期入れだった。
 所々擦り切れたり、糸が解れていたりと中々の扱いを受けている様子から、何となく女子のものではないような気がした。
 ぱらりと定期入れの間から何かが舞い落ちる。慌てて拾い上げると、それは写真だった。

「また君か……」

 写真を見た瞬間、思わずぽつりと呟いてしまうほど、真っ先にの瞳が捉えたその姿は、紛れもない仁王その人だった。
 恐らくテニス部のレギュラー達を撮ったものだろうが、幾分か彼らは幼く見える気がする。裏に走り書きされた日付は去年のものだった。
 は定期入れの間に写真を差し入れると、定期に印字された落とし主の名前を確認し、教室の次は職員室に寄る用事が出来たとそれを鞄へ放り込んだ。

2012/05/05 Up