
とうとう時計は十九時を指し示した。
未だに照明をつけていない教室は、もはや互いの顔を認識するのも困難だった。
それでも恐怖を感じないのは、少なくとも仁王が居るはずのない第三者の存在を口にしないからだろう。
「あの、芽吹いたって、これからさっきみたいのが、私にも見えるってことですか?」
「そう言うことになるかのう」
「な、何で急に……」
「そりゃ、お前さんに元々それなりの資質があったからじゃろ。そうでもなきゃあの時――」
そこまで言ってから急に仁王が言い澱んだ。また彼は考え込むような表情をしている。
「まだ相手の声が聞こえん分、対処は可能じゃ。安心しんしゃい」
「対処?」
上手く彼に話をはぐらかされた気がしたが、まずは今目の前にそびえ立つ最大の問題を取り除くことが何よりも大事だと、唯は仁王の言葉を一言も漏らさまいと耳を澄ました。
「声が聞こえん限りは、大体の相手はお前さんに直接話しかけてくることはないナリ。言いたいことを勝手に一人で呟いているだけぜよ。それを逆手に取れば良いんじゃ。とにかくお前さんは相手のことを徹底的に無視しんしゃい。仮に視界に入っても、目が合ったとしても頑として見えないふりを貫き通せば良いぜよ。逆に動揺したり相手の独り言に反応すれば、相手にお前さんの存在が悟られる。そうなったら潔く相手をするしかないぜよ」
「あ、相手してやれって」
「例外もいるから気を付けんしゃい。そもそも悪意のある輩には子供騙しは一切通じんぜよ。いわゆる地縛霊とかナリ。あいつらは口が上手いだけじゃなく、本当に自分の事しか考えとらん。あとは、動物霊の中にも厄介な奴がたまにいるぜよ。もし気に入られたら諦めんしゃい」
唯の言葉を無視して、仁王は一言に言い切ると立ち上がって扉の近くまで歩いていく、そうして照明のボタンに手を伸ばした。そのままスイッチを入れようとして迷った様子を見せていたが、結局腕を下ろしてしまった。
もしこのまま照明を付けてしまえば、誰かが気付いてこの教室に来てしまうと思ったからだろう。
「一つだけ良いですか」
仁王はちらりと唯へ視線を向けただけだった。それを肯定と受け取った彼女は、言葉を続ける。
「あの、その……どのくらいで声まで聞こえるようにってなるんですか?」
「そればかりは俺にも分からんぜよ。ただ、もし声が聞こえるようになったら特に気を付けんしゃい。霊は基本的に自分の声が届くと分かった相手には無遠慮に縋りつく。まぁお前さんが面倒見が良いと自負するんなら、心霊スポット巡りでも続ければすぐにでも聞こえるようになるぜよ」
「そ、そんな」
「視えるくらいはその内に慣れるじゃろ。さて、時間もそんなにないナリ。お前さん口は堅い方かのう?」
仁王が携帯電話を取り出して時間を確かめる。
ディスプレイの光に照らし出されて、彼の不敵な笑みが白く浮かび上がった。
「取引じゃ。お前さんは自分が見たことや俺と話したことの一切を、他言無用にすることを約束しんしゃい。その代わり、俺は一つだけ力を貸してやるぜよ」
「は、はい、勿論です……」
「よし、取引成立じゃ。それと、もう一つ言っておくがの、俺とお前さんは友達でも何でもないナリ」
「あ、大丈夫です。馴れ馴れしく話しかけたりしませんから。ちゃんと他人のふりします」
「そうか、物分かりが良い奴は好感が持てるぜよ。それじゃ、お前さんの髪を四本抜いて寄越しんしゃい」
「か、髪ですか?」
何のためにと言おうとして、じろりと仁王の鋭い眼光が彼女を射抜く。
唯は口を噤んで大人しく髪を適当に抜いて彼に手渡すと、仁王は小さく折りたたまれた白い紙を机の上に置く。
まるで粉の飲み薬のような形のそれをまじまじと見つめていると、仁王が口早に説明を始めた。
「その中にあるものを、お前さんが普段必ず身に着けるものに入れるだけで良いぜよ。ただし、どんな時も肌身離さず身に着けなければ意味を成さないから注意するナリ。後はある程度まではそれが守ってくれるぜよ。普通に生活するくらいなら相当持つはずじゃ」
唯が包みを指先で持ち上げる。重さは全く感じられなかった。
それを開こうとすると彼がゆるゆると首を振る。今は見るなと言うことなのかと、彼女は生徒手帳を取り出してその間に挟み込んだ。
「もう一つ、これは警告じゃ。約束を破った時には、俺はお前さんを絶対に許さんぜよ」
「大丈夫ですから。私、誰にも話しません。ありがとうございます」
仁王の言葉は冷たかったが、唯にはどうしても彼がこのことを誰かに知られてしまうのを何よりも恐れているように思えてならなかった。
尋ねる代わりに唯が真っ直ぐに仁王を見つめ返せば、彼の瞳がほんの少しだけ揺れた気がした。