
いっそのこと、彼が居なくなるまで気を失っていた方が良かったのかもしれないと、この居心地の悪い無言の中で唯は腕時計に視線を落とした。
いつの間にか、時計はもうすぐ十九時を回ろうとしている。
仁王は先程から再び何かを思案するように腕を組み、目を伏せたままずっと押し黙っていた。
「……しくじったのう」
はぁと初めて聞く諦めたようなため息に、唯が薄暗い中を目を凝らして仁王の方を見れば、彼と視線が絡み合う。再び深くため息をつかれ、つられるように唯も鏡合わせのように同じ動作をした。
仁王が何をしくじったのかは唯の知るところではないが、それは彼にとって余程都合が悪い事らしく、僅かながら表情にも表れているという、驚くべき変化を彼にもたらしていた。
「お前さん、今まで本当に何もみてこなかったんじゃな?」
彼が差す言葉の意味を理解した唯は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐにこくりと頷く。
「そうか……じゃあ、ゆっくり右側から振り向きんしゃい。害はないから叫んだらいかんぜよ」
仁王の言葉に嫌な予感がして唯はそのまま固まった。彼は面倒くさそうに顎をしゃくって再び彼女に振り返るように促す。
嫌だと首を僅かに横に振るが、今度は彼にじろりと睨みつけられ、やがて唯も諦めて恐る恐る振り返る。予想通り視線の端がそれを捕え始めたところで、そのまま彼女は今度こそ完全に硬直した。
唯のすぐ右後ろに人が立っていた。
薄茶色の作業着のようなものを着ているが、その服の先には本来は決して見えるはずのない背後にある黒板の緑が見えている。その人の身体は淡く透けているのだ。そして右腕の肘から先が、まるで切り取られたかのようになくなっていた。
もしかしたら自分の位置からは丁度腕が隠れて見えないだけかもしれないと思い直してみるものの、その人物の腰辺りがまるで血が飛び散ったかのように赤く染まっている。嫌でも様々な想像が彼女の脳内を駆け巡っていく。
一見して生きている人間ではない。
雰囲気からは男性のように思えた。視線を少し上げれば相手の顔も見えるかもしれないが、少なくとも唯にはそんな勇気は微塵もなかった。
相手はまるで自分の存在に気付いていないかのようで、見られている感覚は全くなかった。それでも喧しく騒ぐ自分の心臓の鼓動が伝わって、ふとした瞬間に気付かれてしまわないだろうかと不安になる。
仁王が一番最初の質問の時に言った言葉が蘇った。彼はこれを見てあんなことを口にしたのだろうか。そうだとしても、なぜあの時には見えなかったものが、こうして急に見えるようになってしまったのかと、ぎくしゃくとした動きで顔を漸く仁王の方へ戻した唯は、口をぱくぱくとさせ言葉にならない叫び声を上げる。
「その様子じゃ、ちゃんと見えとるんじゃな?」
こくこくと青褪めた顔で勢い良く頷く唯を見て、仁王はますます諦めたような顔をした。
そのまま視線を彼女の右側へと向けると、動揺する彼女に構わずに口を開く。
「もうすぐ俺らもちゃんと下校するぜよ。頼むから見逃してくれんかのう」
それに対する返答が聞こえることはなかったが、唯は背後に漂う空気が、僅かに扉のある方向へと揺らいだのを感じた。
やがて、仁王がもう出て行ったと言うまで、唯は凍りついたように微動だにせず仁王の顔をじっと見つめていた。
「あー、面倒じゃ」
仁王は今までにないほど嫌そうに呟いて、いよいよ顔を両手で覆った。
一方の唯も、未だにばくばくと煩く奏でる自分の心臓を抑えるようにゆっくりと深呼吸を繰り返す。
「お前さん、さっきのどこまで見えたぜよ?」
「う、薄茶色の作業着みたいなのを着てて、右腕の肘から先がありませんでした。か、顔は、怖くて見てません。それに、それに全身が透けてました」
「声は?」
「声? 何も聞こえませんでした」
そうかと呟いたきり、仁王はまたも黙り込んでしまった。
ややあって、仁王は無言のまま唯の顔をじっと見つめてきた。そこに一刻前まであった敵意の片鱗は見えないものの、やはり戸惑ったような感情が織り交ぜられていた。
少なくとも唯の中で持っていた仁王のイメージからはこんな彼はおおよそ想像がつかず、彼の行動全てがかえって彼女を不安にさせた。
「声が聞こえんで、まだ良かったのう」
唯の感情を察してか再び皮肉を込めて彼は軽口を叩くが、先に感じた印象のせいか彼女の反応は芳しくないものだった。
それよりも、早く本題に入って欲しいと願うような彼女の視線に、仁王は再び面倒じゃと呟いて頭を掻いた。
「あー、お前さん。どうやら『芽吹いた』みたいじゃな」
仁王は直接的な表現を使わなかったものの、その意味は手に取るように唯にも理解出来た。
そしてこの時ほど、あの時こっくりさんに参加したことを彼女は心の底から後悔したことはなかった。