
仁王の最後の質問は、これまでの中で最も唯を混乱させた。
彼の敵意を含んだこの瞳に睨みつけられると、まるで彼自身の手で心臓を鷲掴みされたように息苦しくなる。
「どういう意味、ですか?」
少しの間が空いて、ようやく掠れた声が彼女の口から漏れた。
「お前さんは、一体何なんじゃ?」
彼女の懇願に対して、仁王は淡々と同じ言葉を繰り返しただけだった。
爛々と輝く瞳と、その光を浴びてただただ困惑に揺れる瞳が交錯する。
「別にこれといって霊感がある訳でもなかろうに。なのになぜお前さんには、あの時確かに『ことかえ』が出来たんじゃ?」
「え? 何? こと、か、え……?」
「誰に教わったんじゃ?」
「え? え?」
「……無意識か」
仁王は矢継ぎ早に言葉を重ねたが、そんな彼の様子や聞き慣れない言葉に狼狽する唯の様子を見てふと考え込むように目を伏せた。
「……やっぱり、俺の読み違いかのう」
しばらく思案に耽っていた仁王は、独り言のように呟いて浅く瞳を開く。
唯は一体次に何を言われるのだろうと、思わず身体を堅くして彼の言葉を待った。
「まぁいいじゃろ。話はこれで終わりぜよ。お疲れさん」
唐突に訪れた終わりに、彼女の緊張が緩んだ次の瞬間、自分の身に起こったことに唯は思考を停止した。
仁王がおもむろに立ち上がると、唯の肩を強く引き寄せてすぐ耳元で何事かを囁く。微かな呼吸が耳を霞めていくが、それも彼の瞳と同じく熱を持たずに冷たい。
やがて彼は離れると、突然の出来事に惚けた顔をしている唯を変わらない表情で見下ろしていた。
「今度は、少しばかり試させてもらうぜよ」
何がと疑問を彼女が浮かべるよりも早く、唯は自分の身体のすぐそばで青白く小さな光が灯っていることに気が付いた。
驚いて立ち上がろうとしたが、彼女の身体は意志に反してぴくりとも動かない。
くるりと踊るように彼女の周囲を光がゆっくりと回旋する。
初めは一つだったその光は、緩急を付けて周回を繰り返すたびにやがて四つほどに分かれて徐々に速度を上げていく。
良く観察してみればそれらはまるで炎のような形を模していた。
炎のイメージを持つそれが、唯の身体のすぐ近くを掠める度に反射的にびくりと身体が震えるが、それからは熱どころかむしろ冷え冷えとした冷気が感じられた。
思わず叫び声を上げようとする唯のそばから、しーっと宥めるような声が響く。
昨日と同じように、仁王は己の唇に指を当て、まるであやすような仕草をする。瞬間、彼女の悲鳴は音にはならず、溶けるように自分自身の中に吸い込まれていった。
彼の瞳が満足げに細められる。
「お前さんの為じゃ」
ゆらりと視界が揺れるのを感じて、唯は咄嗟に目を瞬かせた。
自分のものであるはずなのに、抵抗したくともまるで思い通りにならなくなっていく身体を抱きしめようにも、指の一本すら動かせない事実に彼女の心臓だけが拍動を速めていく。
身体の一点だけは滾るように熱いのに、仁王の声も炎も空気も何もかもが冷たい。
急激な浸食に必死に意識を繋ぎとめようとするがその甲斐もなく、やがて唯の世界は暗幕でもかけられるかように暗転した。
頬に妙な冷たさを感じながら唯は意識を取り戻した。
顔にかかる髪の毛を払おうとして伸ばした指先が予想以上に重たく、リノリウムの床にそのまま力なく崩れ落ちる。全身はおろか、目蓋すら持ち上げるのすら気怠くて仕方がない。
暗闇のままの視界の淵で、それでも自分が床に転がっていることを理解した彼女は、何があったのだろうかとぼんやり考えていた。
その瞬間、弾けるように目蓋の裏側に燃え上がったのは、あの青い炎だった。まるで呼応するように唯の瞳がはっと見開かれる。
意識が覚醒すると、それまで以上に床の冷たさがありありと感じられたが、意識を失う前の冷たさとは比べ物にならないほどにそれは温かい。
開けた視界も大分薄暗く、あれから幾分の時間を経たようだった。立ち並ぶ机と椅子の足の群れを見て、唯は改めてここが先刻の教室なのだと知る。
身体が徐々に本来の熱を取り戻すごとに気怠さは消えていく。唯が身体を起こした頃には、はっきりと目の前の男のことも思い出した。
仁王は椅子に座り、唯を険しい表情で見下ろしていた。
既に彼からは凍えるような温度を感じることはなく、それよりも唯は彼が僅かながら焦りを覚えていることを疑問に思った。
「……本当に、お前さんは何なんじゃ」
気に入らないとばかりに吐き捨てた仁王を、唯はただ困ったという顔で見つめ返すしか出来なかった。