
重い足取りで教室に辿り着き、窓際にある自分の机に座った唯は、まず昨日一緒にあの空き教室にいたクラスメートたちの姿を探した。
彼女たちはいつものように一人の机の周りに集まって、何やら楽しげに話をしている。その表情は唯とは対照的に陰りなど微塵も感じさせない。
そのまま続くように仁王の机の方へと視線も向けたが、そこに彼の姿はなかった。すぐ近くには丸井ブン太の席もあるが同じく空席だ。恐らくテニス部の朝練習に参加しているのだろう。
唯は机の上に突っ伏すと、窓から校庭を横切る登校途中の生徒たちの姿を眺めながら、昨日の出来事を思い起こしていた。
今、目の前を流れる光景も記憶に焼きついた光景も、そのどちらも現実味が全く感じられなかった。何もかもが希薄で浮ついていて、掴みどころがない。思わず確かめるようにぎゅっと目を堅く瞑れば、眉間には不自然な皺が寄る。まとまらない考えも何もかも、自分の身体の外側へこのままいっそ押し出してしまいたかった。
なぜ彼女たちはあんな風に振る舞えるのだろうか。
ふとそんなことが気になり、もう一度彼女たちへと視線を向けた。相変わらず楽しそうに笑う彼女たちの表情には、やはり一点の曇りもない。
少し違和感を覚えた。
昨日のあの異様な出来事を経験して、どうして今もなお笑っていられるだろうか。
自分ですら、目が覚めてからずっとこのことを引きずってしまっているというのに、少なくともあの少女たちは、当時の自分よりも遥かにただ怯え震えていたはずだ。
あんな経験をした以上、仮に今日学校を休んだっておかしくはない。
それなのにたった一晩で、まるで何もなかったかのように笑えるとは到底思えなかったのだ。
芽吹いた疑問の種が伸びる先を確かめずにはいられなかった。自然と唯の身体が動く。
「おはよう」
「? おはよ。無川さん。どうしたの?」
少女の一人が、不思議そうな表情で返事をする。まるで話しかけられたのが意外というでもいう顔だ。
それも無理はない。普段から一人でいることが多い唯は、自分からクラスメートに積極的に話しかけることはあまりない。
だからこそ今更相手からこういった態度を取られることはとっくに慣れていたが、今回に限っては、彼女たちの態度にまた違和感が膨らんだ。
「あの……昨日のこと、なんだけど」
「昨日の事?」
「空き教室であったことなんだけど」
「……え?」
少女の表情が今度は怪訝なものに変わる。
互いに顔を見合わせては「何かあったっけ?」と首を捻っている彼女たちの反応は、どうにも要領を得ないものだった。
唯は、自分の違和感の蕾が確実にほころび始めたのを感じて思わず両手を握り込む。まさかと思って少女たちの言葉を待てば、すぐに予想通りの答えが返ってきた。
「ねぇ、無川さん何の話? 私たち昨日空き教室なんて行ってないよ。ちょっとごめん、言ってる意味分かんない」
腕時計に視線を落とすと、十七時半を回った所だった。
唯は空き教室の扉の前に、今度はたった一人で立っていた。
クラスメートたちは、昨日、ここで経験したはずの一切を覚えていなかった。
そもそもあの出来事自体が、実のところ昨晩の己の夢の中で起きたことだとしたらどうだろうか。ありもしない空想を現実と思い込んで、勝手に自分の記憶として植えつけてしまっていたなら、自分の記憶がおかしくなったとしか言いようがない。
あの場に居たもう一人の人物と言えば仁王だったが、元々接点のない仲であることや、彼を連想する度にどうにもあの冷たい瞳が思い起こされて、尋ねるどころか直視することすら出来なかった。
ここに来れば全てが分かるとは思っていなかったが、頭の中であれこれ考えれば考えるほど、あの光景の数々は現実味をかえって失い色褪せていくようにしか感じられなかったのだ。
からからと軽い音と共に扉が開き、教室は彼女を招き入れる。
室内は昨日と同じく赤い光と静寂に包まれていた。それでもあの時に経験したような禍々しく重い空気は一切ない。
一人でここに来るのが怖くなかったと言えば嘘になるが、それでも最後にと確かめずにはいられなかった。
ここに当時の残留の一切がなければ、彼女も性質の悪い夢を見たと全てを忘れることに決めていた。
(そう言えば、こっくりさんの道具、どうしたんだろう?)
口には出さずに一人ごちて机の上に視線を滑らせるが、当然紙も十円玉も見当たらない。
こっくりさんを始める前に聞いた話では、やり方は同じく色々あるにしろ、最後に紙は四十八に千切り焼き捨て灰は砕いて風に吹き流し、十円玉は三日以内に使えと言っていたはずだ。
少なくとも自分は処分していないし、だとしたら他の少女の誰かが――
そこまで思案して、浮かんできた顔はやはり仁王だった。
もしかしたらあの場で冷静に事を収めた彼が処分したのかもしれない。だが、それを確かめることなど不毛過ぎる。
「お前さん。何しとるぜよ」
後方からの、しかも割と近い距離からの声に危うくひっと出かかった声を飲み込んだが、肩が大きく震えたのは間違いなく彼に見られただろう。噂をすれば影とはまさにこのことだ。
予想外の仁王の登場に唯は恐る恐る振り返る。彼の訝しげな光を灯す視線と交錯し、思わず彼女の方から先に逸らした。
「……お前さん、その様子だと『昨日の事』覚えとるんじゃな」
彼の言葉に思わず「え?」と彼女が視線を戻すと、彼の目がすぃと細められる。
「少し話さんかの?」
そう言うなり、仁王は後ろ手で扉を閉める。
昨日と同じくやけに耳に残る扉の音に唯は思わず表情を曇らせた。