カレイドスコーピオ

インビジブル

01.呪い遊び / 7

「帰りんしゃい」

 仁王とは普段から親しく話をするような仲では勿論なかったが、少なくともが今まで見かけたことのある数少ない彼の様子からは、まるで想像もつかないほど静かな声が響いた。
 その瞬間、天井からスピーカーがハウリングした時のようなキーンという高い音が聞こえ、十円玉は狂ったようにその動きを増した。
 それらが目玉たちの叫び声だと気付いたのはすぐのことだったが、も含め少女たちは仁王の言葉通り、息を殺して耐えるしかなかった。

「帰りんしゃい。ここに居られたら俺が迷惑なんじゃ」

 諭すような彼の声に被せるように、目玉たちはいっそう金切声を上げる。
 すると今度はの手の甲に涙とは比べ物にならないほど質量を持ったものがべちゃりと広がった。
 何が落ちてきたのかなど想像に難くない。彼女は思わずひっと小さく悲鳴を上げる。
 すぐに仁王のしっと低く囁く声が聞こえきたので、必死になって彼女は唇を噛んで悲鳴を押し殺した。強く噛み過ぎたのか口内に血の味が淡く広がったが、今は構っていられない。
 目玉が自分の手の甲に落ちてきたのは明らかだった。甲の上でふるふると震えるそれはやはり生暖かく、彼女に恐怖と不快感しか与えない。瞼の裏側であの少女の身体に目玉が潜り込んでいく光景が、自分の姿とすり替わって鮮やかに再生された。
 すぐにでもなりふり構わず振り払いたい衝動が沸々と湧き上がるが、今は仁王しか頼ることが出来ない。彼が口を出さない以上、はやはり甘んじて耐えるしかなかったのだ。

「聞こえんかのう。帰りんしゃい」

 それまで、微動だにせず涙の雨に濡れるばかりだったあの少女が、何の前触れもなく仁王に向かって掴みかかってきた。
 髪を振り乱し身体ごと向かってくる彼女の行動を彼は予想していたのか、難なくそれをかわし彼女の手首を掴むと、身体を引き寄せてその瞳を覗き込む。

「可哀想にのう。もうこんなところまで潜り込まれとるナリ」

 少女の左目の下目蓋を仁王の指が押し下げるようになぞると、みるみる彼女の眼球は天井の群れと同じように赤く染まっていく。
 どろりと粘度をもった赤い涙が滲み出し、仁王はそれが指に触れる前にそっと指を離すと、暴れる少女を抑え込む。

「その子の目はやれんぜよ。勿論俺のもじゃ。大人しく帰りんしゃい」

 仁王の声は一律だ。たちには至って静かに響いてくる音も、この異形の者たちには何か特別なものに聞こえるのだろうか。
 同じくして目玉のこの不協和音に他ならないこの音も、彼には意味のあるものとして届いているのだろうか。
 彼の言葉にその都度反応して、彼女の手の甲にある目玉は小刻みに震えその身を捩る。
 ああそうか、今度は敵意から抵抗に変わったのかと、どこかでこの光景を客観的に見ている自分には思わず泣きたくなった。

「駄目じゃ。髪一本だろうと、爪一枚だろうと一切やれん。さっさと帰りんしゃい。最期じゃ。俺は気が短いぜよ」

 天井の金切声と、少女の叫び声が重なり脳内を掻き乱すような不快な音が室内に木霊する。思わずたちは顔を顰めた。

「消えんしゃい」

 びくりと手の甲の目玉が脈打った。同時にまるで熱した鉄の塊を無遠慮に押し付けられたようにそこが熱くなり痛みが走る。ずぶりと自分の体内から音が聞こえてきて、はいよいよ最悪の展開を覚悟した。目玉が自分の中に逃げようとしていたのだ。
 皮膚を裂く熱さと痛みに堪えきれずは小さく呻き声を上げた。仁王がちっと舌を鳴らす。

「消えろ」

 それは、これまでよりもずっと低く熱を孕まない声だった。
 自分たちに向けられた言葉ではないのは分かっているが、はまるで自分の存在そのものを否定されたように感じて、自分の鼓動の全てが一瞬にして凍りつく錯覚を覚えた。
 叫び声も目玉の震えも揃ってぴたりと止まり、少しの間が空いた後、それらが一斉に弾け飛ぶ。
 勿論、下を向いていたたちはその様子を見ることは出来ないが、彼女は手の甲に乗っていた目玉がまるで水風船を割った瞬間のように勢い良く弾けた感触を確かにその肌で受け止めていた。
 やがて、教室内の異様な雰囲気が霧が晴れるように引いていき、仁王の指を離して顔を上げても良いという声で少女たちは恐る恐る目を開けた。
 教室はいよいよ影を落としていたが、ほんの少し前の光景に比べたらむしろずっと明るく見えた。そして、あの目玉たちは一つ残らず消えていた。
 机の上の紙面だけは、僅かに赤い余韻を残したままだったが、少女たちの目の前でそれはみるみると薄くなっていき、やがて鳥居の色以外は元のように白い紙に戻った。
 仁王は何事もなかったような顔で立っており、その腕の中には件の少女がいる。彼女に纏わりついていた血の跡もなくなり、どうやら今は完全に気を失っているだけだった。
 彼は床に少女を横たわらせると、今度はたちの方をじっと見据える。
 それは目玉に向けられた時と同じ睨むような目で、揃って文字通りまるで狐につままれたような顔をしていた少女たちは、向けられた予想外な彼の敵意にぎくりと肩を震わせた。
 やがて、ゆっくりと仁王は口を開く。

「お前さんたち、もうここには来たらいかんぜよ。今日この場所であったことは全部忘れんしゃい。全部じゃ」

 耳に残るのは、低くやはりどこまでも冷たい声だった。

 あれからは、どうやって家まで帰って来たのか覚えていない。
 気づけば、カーテンの隙間から細い日差しが差し込む自室で、携帯のアラームに揺り起こされながら彼女はいつも通りの朝を迎えていた。
 一瞬今までの出来事の全てが夢かとも思ったが、今でも思い出せるほどのまざまざとした手の甲の感触と、母親の「昨日どうしたの。帰ってきてからろくにご飯も食べないで」という言葉に、これは決して夢ではなかったのだとは背筋が再び凍るのを感じていた。

2012/04/17 Up