
異様な光景だった。
三人の指を乗せた十円玉は、未だにスピードは衰えないまま紙上を走り回っては、その意味を理解するのを憚られる言葉をなぞっている。
一方で叫び声を上げて硬貨から指を離してしまった少女は、今や完全に我を失ってしまっていた。
室内の空気はまるで冷蔵庫の中にでもいるかのように冷え冷えとしていて、この場の全員が安易に己の好奇心に乗ってしまったことを今更ながら激しく後悔していた。
「見ないで、見ないで!」
「ねぇ、どうしたの? ねぇってば!!」
宥めようとすればするほど、虚空を見つめる彼女は怯え取り乱す。
いくら離れの空き教室だとしても、これだけ騒いでいれば誰か不審がって様子を見に来てくれそうなものだがそんな気配は一切なく、そのことも唯たちを静かに追い詰めていた。
やがて、狼狽したままの少女の視線が再び宙を泳ぐ。その目が天井を捕えた時、彼女は一際大きく悲鳴を上げとうとうその場にへたりと座り込んで叫び出した。
何事が起きたのかと反射的に唯たちも天井を仰ぐが、そこには赤暗く浮かび上がる天井があるだけだ。
「ほら、天井にいっぱい目がある! 全部私たち見てるじゃない!! ねぇ、皆には見えないの? ねぇ!!」
「何言ってんの。そんなのないよ。もう嫌だ! 帰りたい!」
「ごめんなさい。ごめんなさい。もうしませんから、お願いですからお帰り下さい」
天井を指さして取り乱す彼女にしか見えない、何か得体のしれないものが確実いる。
凍りつくような空気の中、唯も祈るような思いでこの恐怖が終わることを願っていた。
だが紙上を滑る得体のしれない何かの意志は、嘲笑うかのように同じことを繰り返すばかりだった。
そして、唐突に叫び声がふつりと切れた。同調するように硬貨の動きも止まる。
また何かが起きたのかと恐る恐る少女へと視線を向けると、彼女は未だ座り込んだままその両腕は力無く床にだらりと投げ出され、そしてその頭は重く垂れていた。そのせいか、表情は全く伺うことが出来ない。
「だ、大丈夫……?」
探るようにかけられた声にも少女は何も反応しない。まるで人形のようにただじっと動くことなくそこに座っていた。
その代わりとでも言うように、ぴくりと硬貨がその場で小さく円を描く。
指を乗せたままの三人がつられるように紙へと視線を向け、すぐに動きを止めた硬貨を注視するが、何も変化がないことを確認すると再び少女の方へと向き直った。
「……っ!」
三人が一斉に息を飲む。
座り込んでいたはずの少女が、いつの間にか唯たちのすぐ近くに音もなく立ち尽くしていた。
ばさばさに乱れた髪から覗いた暗い瞳は、ぼんやりと開かれ何も映していない。
その手がおもむろに伸びると、硬貨に添えた一人の少女の指に触れた。
「何すんの? ちょっと! 嫌だ。止めて!」
そのまま硬貨から指を引き剥がさんとするのを声を荒げながら自由の利く腕で少女は必死で拒む。
たまたま振り上げた腕が相手の肩に当たり彼女はぐらりと体勢こそ僅かに崩すものの、手は決して離れることはなくそこに込められた力は恐ろしく強い。
このままだと彼女の指が引き剥がされるのは時間の問題だが、周りはそんな二人のやり取りを固唾を飲んで見守るしか出来なかった。
からからから。
全く予想もしていなかった方向から聞こえてきた音に、四人全員の視線が後方にある扉へと注がれた。
扉の先に見えるのはこの室内よりも遥かに深い黒だ。こんな時間帯にも関わらず、不思議なことに廊下も照明が一切ついていないらしい。
今度は一体何が始まるのかと、少女たちは息を飲み身体を強張らせる。
ほんの一瞬の間が空き、その黒色からまるで浮かび上がるようにして一人の男が姿を見せた。
「お前さんたち、こんな所で何をしてるのかと思えばのう」
扉を閉めながらのんびりとした声で仁王雅治はそう言うと、ゆったりとした足取りで唯たちの側に歩み寄った。
もし仁王が姿を見せたのがこんな状況下でなければ、少なくともこの場にいた唯以外のクラスメートたちは全員色めき立ったのだろう。
目の前に立つ人物は、この立海大付属中学校の中で最も有名な男の一人だった。
「どうしたんじゃ? 続けんしゃい」
そう言って仁王は、この異様な状況も特に意に介さないのか少女たちに向かって薄く笑いかけると、近くにあった椅子を適当に引き寄せて腰を下ろした。
ゆらりと揺れる白妙の髪や男にしてはやけに色素の薄い肌は、この場所ではより浮き立って見える。
予期せぬ第三者の登場に奇妙な均衡を保っていた四人だったが、仁王の言葉を皮切りに再び動き出した。
「に、仁王くん。た、助けて」
「何がじゃ?」
「こっくりさんやってたら友達が急におかしくなっちゃって。この子を止めて。お願い!」
「それは帰ってもらうのも大変じゃのう。あ、指は離さん方が良いぜよ」
再び手を掴まれた少女が、仁王に向かって必死に助けを乞い掠れた声を上げるが、彼はその様子を見てものらりくらりとかわすばかりだ。
「こっくりさんは途中で止めたらいかんぜよ。憑かれたいなら止めはせんがの」
憑かれるという言葉の意味に少女たちは固まり、ゆるゆると感情の見えない少女の方へと視線を向ける。
喉奥でくつくつと笑う仁王の声が響いた。
「でも、そのこっくりさんが帰ってくれないの」
「じゃろうなぁ。それ、お前さんたちのこと気に入ったみたいだからのう」
「仁王くん、何言ってんの? 何でこの子と同じこと言うの……ねぇ、ここにホントに何か居るの?」
「居るも何もずっと。ほら、見てみんしゃい」
そう言って仁王が天井を仰ぐ。
つられるように唯たちも天井へと視線を向けるや否や、きゃあと三人が揃って悲鳴を上げた。
何もなかったはずの天井の至る所に目玉があった。
ぎょろりとそれらは目まぐるしく動き、やがて一斉に少女たちの方へと視線は向けられる。
その内の一つが、まるで熟した果実が自然に木から落ちるようにぽろりと天井から剥がれると、未だにぼんやりと立ち尽くす少女の頭へと降りかかった。