
彼女の目の前で交わされる一人と一匹のやり取りは、不可解極まりないものであることは明白だった。だがそれでも唯をこれまで幾度となく襲ってきた恐怖感は、今はなぜか少しも感じない。
目と鼻の先で続くその会話が、その輪郭を徐々にぼかしていく。と同時に、彼女の耳に届く
声も遠くなり、その度に唯は自身の存在が希薄になっていくように思えた。
確かめるべく彼女はそっと足を一歩後ろへと引いた。その所作は驚くほどに静かで軽く、空気をかき分ける感触すらもなかった。畳に触れた足の指の感覚も鈍っていて、残したままのもう片方の足を揃えた時も眼前の光景は変わらなかった。
今のうちにならこの場から抜け出すことができるかもしれない。そうしたところで現状が打破できるかは分からないが、とにかく自分を不安にさせるものから逃げ出してしまいたい。そんな考えが唯の頭に浮かんだ瞬間、まるで彼女の考えなど始めから見透かしていたかように、こんのすけの頭が唯の方をゆるりと向いた。
びくりと彼女の肩が跳ね上がれば、とたんに全身へ重みが戻ってくる。あぁこれでもう逃げられない。そう唯は失意に打ちひしがれた。ざりと引きずった足と畳の擦れる小さな音が響いた。
「大変失礼致しました。審神者さま」
こんのすけが唯に向かって頭を垂れた。ここへ辿り着くまでに幾度となく目にしたそれは、どれもがまるで機械のように統一されている。その横では、振り返った加州がその赤い瞳を細めていた。
いよいよ矛先が自分へ向けられたことに、彼女は思わず更に一歩後ろへと足を引いた。室内の暗がりに身体が沈み込み、唯の視界は一瞬明滅し揺らぐ。
こんのすけがもう一つ「審神者さま」と紡げば、今までじっと様子を伺っていた恐怖が牙をむき出しにして彼女を威嚇する。一瞬にして粟立った肌に、唯の喉がごくりと鳴った。
狐とよく似た生物が、明確な意思を持って人の言葉を発している。
こんのすけ。そう名を呼んだ加州が、この状況に疑問を持つ様子は全くない。それこそ一方的ではあるが軽口を叩いていることから、互いに見知った仲であるのだろう。
まるでおかしいのは自分自身の方ではとすら錯覚してしまいそうになるが、唯は加州もこんのすけも己から一線を引く場所にいる存在なのだと思うことで、向かい来る牙からその身を守っていた。
じりと更に彼らから距離をとる唯に、加州は非難じみた視線を再びこんのすけへ向けた。
こんのすけと視線を交えることで精一杯の唯の視界には、そんな加州の姿は映っていない。それどころか、先ほどこんのすけが発した『審神者』という聞き慣れない単語すら耳に残っていなかった。
「ちょっと。どーすんのさ?」
「加州清光は口出し無用です。あなたの発言は、審神者さまを余計に混乱させます」
「……あー、はいはい。俺は黙ってりゃいいんでしょ」
拗ねたように彼は口先を尖らせると、眼前に広がる中庭へと視線を向けてそのまま目を閉じる。
こんのすけはそれを一瞥してから、今度は身体ごと唯へと向き直った。
「度重なる失礼、本当に申し訳ありません。せっかくお越しいただいたのに、これでは審神者さまが不審に思われるのももっともでございます」
そこでいったん話を切ると、こんのすけは深々と頭を下げた。
やはりどこか形式じみた動きであり、こんのすけの意思ではないように思えてならなかった。
「ご説明いたしますので、まずはお気持ちを静めてくださいますようお願い申し上げます」
こんのすけの言う説明の中には、もれなく今唯が置かれた状況についても含まれているのだろう。
このまま気力を振り絞りこの場を去る選択肢もまだかろうじて残されてはいるが、そうしたところで、結局はあの霧の中へ戻るのだろうと思うと、そのほうがずっと嫌なことのように彼女には思えた。
がたと物音が響き唯が縁側へと視線を戻すと、立ち上がった加州が中途半端に開いていた障子戸を引いていた。縁側に沿って同じく並ぶ雨戸も同様に取り払ってしまえば、暖かな日差しが唯の周囲の薄闇を塗りつぶしていく。
緊張から冷え切った彼女の指先がじんわりと熱を帯びれば、ここを出ていく気などとうに失せていた。
「俺、お茶でも淹れてくるね。もう、ここも最低限は揃ってるんでしょ?」
「はい。審神者さまが就任された時点で、本丸としての機能は開始しております」
「ふーん。じゃ、こんのすけは話続けててよ」
加州はそのまま唯の横をすり抜けると、廊下を迷うことなく右折した。
口ぶりからはここは彼の家ではないようだが、間取りは理解しているらしい。
(さにわの就任? ほんまるとしての機能?)
彼の足音が遠のいていくのを聞きながら、唯はようやく軋みながらも回り始めた頭で先の会話を反芻する。
「審神者さま。どうぞこちらへ」
はっとして彼女が振り返ると、隣に続く部屋を間仕切る襖がいつの間にか開かれており、その先にこんのすけが座っていた。
中央には大きな座卓が置かれており、奥にある床の間のすぐ近くに座布団が敷いてある。
そうして促されるまま、彼女はそこへと腰を下ろした。