
くぐり戸は閂が開いたままであるのにも関わらず、唯がいくら押しても引いても頑として動かなかった。
誰が、いつの間に、と考えたところで、彼女はその思考がそもそもここでは無駄なことだと振り切る。
いよいよ屋敷の敷地内にまで閉じ込められてしまった。思えば生じた事象の全てが、彼女を誘い込むために誂えられたものとしか考えられなかった。
固く閉ざされた門扉に唯は額を押し付ける。固い木の感触は、彼女に対して敵意は示してこなかったが、それでもやはりここから外へと出すつもりはないようだ。
その時、彼女の背後で音がした。微かな音であったのにも関わらず、まるで彼女の耳に意図して飛び込んできたようなそれは、動物の足音にも聞こえる。唯に近づきやがてぴたりと止まる。
彼女は姿勢を崩さないままじっと聞いていた。唯が先に動き出すのを待っているのか、それは今度は一転して沈黙を貫いている。音はすれども気配が一切感じられない。
しばらく迷った後に、唯はもう一度だけ扉を押した。やはり僅かにも動かない様子に小さくため息をついてから、彼女は思い切って振り返った。
それは、一メートルほど離れた先に座っていた。
「き、狐……?」
予想していなかった光景に、思わず彼女の口からぽろりと言葉が零れる。
全体的に艶のある黄色がかった毛並みをしているが、顔から腹にかけてや尾の先だけは色素が抜けて真っ白だ。ふっくらとした尾が、ゆっくりと左右にと規則的に揺れている。
ただし、唯が確信を持って狐と呼ばなかったのは、一目で違和感を覚えるその表情にある。
規則的に並ぶ鮮やかな朱色は、一見して血液によるものではない。鼻上に沿って一本通る天色も同じく目を惹くものだ。
まるで歌舞伎の隈取りを連想させるその模様は、自然に浮かび上がったものではないことは明白だった。
じっと黒曜の瞳を向けるそれからは、唯に対する感情の一切が読み取れない。目は口ほどに良く言うとは表現されるが、眼前のこれから滲み出ているのは、ただただ野生動物の性質そのものだった。
だとすれば、釈然としなくともやはり狐と呼ぶのが適当なのかもしれない。
狐の尾がぱたりと地面を叩く。動きから少なくとも彼女に対する敵意はこれもまたないように見えた。
そうして対峙したまま少しの間が開き。先に行動に移したのは狐の方だった。
姿勢を崩さずにそれが恭しく頭を垂れる。明らかな人の所作に唯の口から驚きが漏れた。
頭を上げたそれが、今度はそのまま踵を返し屋敷の方へと駆け出す。彼女が視線でそれを追うと、やがて狐が足を止めて振り返り再びその場で座した。尾が元のように緩慢に揺れる。
まるで唯に付いて来いと言わんばかりの仕草だ。思わず彼女が腰を上げれば、狐は頭を深く垂れてから立ち上がる。
誘われるままに屋敷の前まで戻ると、開け放った玄関扉の中へと狐は踏み込んでいく。唯も遅れまいと続けば、畳の間を真っ直ぐに進んでいく狐の後姿が白い光に溶けていくのが見えた。
どうやらあの桜の木へと向かっているようだ。
先程の廃屋とは状況が違っている。さすがに土足のまま進むのはどうだろうかと考えている彼女の足先が何かを弾いた。視線を落とせば、あの鞘が転がっている。
小上がりに置いたはずだと、一瞬気を取られた彼女がはっとして顔を上げると、狐の姿は消えていた。
あ、と呟いてから唯は慌てて靴を脱ぎ小上がりに足をかけた。そのまま奥へと進もうとしたが、不意に後ろ髪を強く引かれる感覚を覚えて土間へと向き直る。黒い鞘だ。
こうなっては仕方がない。もはや直感でしかなかったが、彼女は腕を伸ばしてそれを拾い上げると、足早に桜の木の方へと歩を進めた。
相当の広さのある畳の間を横切って、ただ真っ直ぐに進んでいく。極力周囲の様子、特に黒い影が消えていった左側の方は見ないようにした。もし万が一にも再び不可解なものでも見てしまったら、今度こそ取り乱してしまうだろう。
そうして縁側に辿り着くと、ようやく桜の木の全貌が明らかになった。
「……すごい」
その光景に思わず彼女は感嘆を漏らす。
逞しく張り出した枝の数々は複雑に絡まり、それらを埋め尽くすのは見事なまでに咲き誇った桜の花弁だ。
どうやらここは中庭に通じる縁側らしい。
中庭と言っても、こんな桜の木が十分に枝葉を伸ばせるほどの広さだ。だとすると、この屋敷自体も相当に広いのだろう。他にもいくつか庭木が見えるが、そのどれもが一通りは手入れされているように見えた。
ここには誰かが住んでいるのかもしれない。唯の脳裏をあの黒い影が過ぎり、頭を軽く振ってそれを打ち消す。
辺りは春の匂いで満ちている。緩やかに風が抜ければ、その香りはより強く彼女に巻きついた。
「あーやっと来たね」
突然響いた左側からの声に、唯は激しく肩を震わせた。
ぎこちない調子でその方向へ首だけを僅かに動かせば、縁側に腰掛けて桜を見上げる黒髪の少年の姿があった。