カレイドスコーピオ

からの鞘

01.からの鞘 / 6

 ほんの少し前に鳥居を潜り抜けた時には、まだ青いススキが敷き詰められた広場が広がっていたはずだ。
 ましてやはその中を掻き分けてここまで来たのだ。こんな眼下に延々と伸びる石階段が存在している訳がない。
 呆然と立ち尽くしたの目の前に続く石階段は、十段ほど下から更に深いもやがぼんやりと漂っていて先が見えない。
 すっかり混乱した彼女の脳が、それでも一歩足を踏み出させる。ところが、右足が降りたところでいよいよ彼女の身体は強張った。
 足が根を張ったように全く動かない。確かに霧が立ち込めてはいるが、強い不安を覚える訳ではない。それでも、身体がこれ以上先に進むことを頑なに拒んでいた。
 やっとの思いで足を戻すと、は状況を整理すべく周囲を見渡した。

「一体何が、起きて……」

 このまま無我夢中で走ってきたせいで気付かなかったが、石畳の左右に広がっていた風景も全く先ほどと違っている。確かに鬱蒼とした雑木林の中に孤立した場所ではあったが、今は鳥居を中心に左右に展開する木々は、まるでそうであるのが当然と言わんばかりに均等に並んでいる。それは意図して狙わなければ作り得ない情景だった。
 それよりも彼女の目を引いたのは、間近にあるあの鳥居だった。
 震える足を引きずって近づく。まさかと彼女の心臓が痛いほど跳ねた。

「これ、さっきの鳥居じゃない……?」

 鎮座する鳥居は鮮やかな朱色に染まっている。その表面は滑らかで、淡く光を反射するほどだ。
 漆塗りの椀を連想させるそれは、先ほど見たはずの朽ちかけたものとは全く異なっていた。
 ふと思い出しては鳥居の背後に回る。あの刀傷が刻まれた場所へと視線を向けると、彼女は目を見開いた。

「え? 何で? 何で私の名前が……」

 刀傷ももれなく消え失せ、そこに黒く刻まれていたのは紛れも無い彼女自身の名前だった。
 思わず指先を伸ばしそこへと触れれば、ぴりっとした静電気のようなものが走り次の瞬間に文字が消滅する。
 突然のことにひっと短い悲鳴を上げて、は一歩後ろへとよろめいた。手に持った鞘が彼女の手から離れ、石畳の上でからんと音を立てる。そのままへたりと彼女は座り込んだ。
 一体自分自身の身に何が起きたのだろうか。遥か高く聳え立つ鳥居に見下ろされ、は声にならない声を上げる。
 しばらく腰を落としていた彼女だったが、あてなく視界を巡らせていると転がった鞘が目に入った。咄嗟にぎゅっと目を固く閉じる。
 余計なものを拾ってしまったばかりに、こんな目に遭うのだと、ただの八つ当たりだが、彼女の思いを寄せる場所はそこしかない。
 もう一度瞳を開いて鞘を睨みつける。それは素知らぬ顔で横たわるばかりだ。
 そこではふと思い直した。
 きっかけの一つがこの鞘にあるとしたら、元の場所に戻せば状況が変わるのではないのだろうか。そんな考えが浮かんだ瞬間に、彼女は鞘を掴んで走り出していた。
 再びあの大きな門が彼女の瞳に映る。鳥居と同様に変化を全くとらえていなかったが、門についてもその姿を改めていた。
 構わずにはやる足はそのままにくぐり抜ければ、の足が三度止まった。

「もう、いい加減にしてよ……」

 眼前に広がるのは、先ほどの廃屋ではなかった。その構えは、叔母の家にやはり良く似ている。
 玄関には先ほどは無かった引き戸もきちんと収まっており、は意を決して扉を開いた。
 少しばかりひんやりとした空気が彼女の肌を撫でる。玄関口から見る室内の様子も一新していた。
 鞘が元々あった場所はちょうど玄関の土間のところだったが、整然と均されたそこへただ置くのは憚られたため、は少し迷ってから小上がりのところへそれを置いた。
 廃屋の様相を呈していた時には良い印象がなかったが、今は全くそんなことを感じさせない。相変わらず人の気配はなく、しんと静まり返っていた。
 先に覗く木の幹は変わらない。目を凝らすと何かがゆっくりと降り注いでいるのが見えた。何だろうかと思っていると、ひと際強い向かい風がの身体を吹き抜けていく。
 頬に何かが触れた感触に思わず彼女が手を伸ばすと、指先にそれが絡みついた。その小さな一輪の花に彼女の目が驚きに見開かれる。

「これって」

 桜だという言葉を彼女は飲み込んだ。
 全体に白みがかり、花弁の中心部分は赤く染まっている。最盛期のフゲンゾウのように見えた。通常、その大きさから庭木にはあまり向かない種類でもある。
 それよりも根本的な話として、仮にこれがフゲンゾウだとしたら、花の最盛期は四月から五月にかけてのはずだ。少なくとも今の時期に人工的に栽培されたもの以外に咲くはずなどない。
 そこで始めては首筋の辺りにじんわりと浮かんだ己の汗に気が付いた。
 走ってきたせいだと思っていたがそうではない。周囲の空気が日を孕んだ熱を持っているのだ。
 そのことを理解した瞬間、だけが一人身体を震わせる。本当にこの場所はおかしい。早くあの叔母の家に帰らなくてはと、門に向かって駆け出した。
 鳥居に戻ったところで事態が好転しているとは限らない。何も変わっていないかもしれない。それでもほんの一瞬でも心地が良いと感じてしまったことに強い恐怖を覚えた。この場所にいるよりはずっと良かった。
 もつれる足をかろうじて動かしていたが、そのをあざ笑うかのように目の前の光景が刃となって彼女に突き刺さる。
 先ほどまで開いていた門が、今は固く閉じられていた。

2015/11/11 Up