カレイドスコーピオ

からの鞘

01.からの鞘 / 2

「ここまで遠かっただろう? ご苦労様」

 がバスを降りると、そのすぐ近くに一台の車が停まっていた。周囲はすっかり紫色に染まり、灯ったヘッドライトが道路の上に二つの丸い月を落としている。
 車へ寄りかかるようにして男が一人立っていた。彼女よりも幾らか年上に見えるその彼の足元には、時間の経過を視覚化した幾本もの煙草の吸殻が散らばっている。
 彼女が車へと近づくと、彼は口に咥えていた煙草を足ですり潰してからそう言った。

「すみません。予定より大分遅くなりました」
「いや、とんでもない。来てくれただけで助かるよ。母さんもきっと喜ぶさ。荷物はこれだけ?」

 彼はの小ぶりのボストンバッグを見て少し驚いたような顔をしてから、彼女の手からそれを受け取り車の後部座席へと詰み込んだ。それから助手席の扉を開き彼女に目配せをする。促されるままそこへ乗り込むと、予想した通り車内には煙草の匂いが酷く染みついていた。
 男が運転席に乗り込む。習慣なのだろう。すぐに灰皿に伸ばされた指先だったが、隣のの姿に気付くとばつが悪そうに引っ込めた。

「あぁ、すまない。癖でね。吸わない人には気になるだろう。まだそんなに寒くないはずだから窓でも開けてくれないかな」
「……すみません」

 男の言葉に甘えて彼女はウィンドウを開いた。湿った葉の匂いの混じった空気が彼女の頬をするりと撫でる。彼が言った通りさほど冷たくはなく、むしろ心地良く感じられた。
 彼の話によれば、叔母の家まではあと五分ほどで着くらしい。
 望郷の念は確実に大きく膨らんでいくのにも関わらず、家までの道のりと言うごく根本的なことは全く思い出せなかった。まるで矛盾した均衡の取れない心情に、彼女は一人苦笑いを浮かべた。
 男はその様子を横目に眺めていたが、特に何も口にする訳でもなく、無言のまま時間が流れていく。
 窓の外の流れる景色をぼんやりと眺めていたの瞳に、それは突然に飛び込んできた。
 黒濡れの木々の隙間から浮かび上がっていたのは、孤立する朱塗りの鳥居だった。それはほんの僅かの間に彼女の視線の端から端へと流れていき、後は鮮やかな赤だけが鈍く残った。思わず彼女は後を追うようにして軽く身を乗り出す。

「ん? どうかしたかい。もうすぐそこだよ」
「あ、いえ、何でもありません」

 男に呼びかけられ、の視線が声へと向けられる。怪訝そうなその瞳の黒にそれはあっという間に塗り潰された。
 彼のハンドルを握る指先が、わずかに前方を示す。同時に車がなだらかな坂道を登っていき、そのまま突き当りの角を曲がると、いよいよぼんやりと灯った明かりが彼女にもはっきりと分かった。

 ただただ静かだった。
 玄関に一歩足を踏み入れた瞬間に、は思わず息をするのも躊躇った。
 既に日がすっかり落ちてしまったあとだ。家屋の外観の全貌は知り得なかったが、この叔母の家はいわゆる古民家に分類されるものである。
 天井は相当に高く、太く長い梁がその存在を主張して横たわっている。板張りの床に土壁と、都会では意図した施設以外では、まずこれだけのものは見る機会はないだろう。
 離婚をきっかけに叔母がここへと移り住んだのは、もう二十年以上も前のことだ。息子である彼は父親に引き取られたため、幼いころの母の記憶は全くといって良いほどなかったそうだ。
 いろいろと複雑な事情があったようだが、彼が彼女との交流を回復したのは、ここ数年のことだったという話が、車の中でが彼と唯一交わした内容だった。
 その時の眼前を見据える彼の表情は、悲嘆いうよりも諦念という表現が似合っていた。
 もしかすると、はそんな彼以上に叔母との時間を過ごしたかもしれない。彼女にはさすがに彼にその話題を振る勇気はなかったが、それでも徐々に記憶が揺さぶられていくのをありありと感じていた。やはり懐かしさだけが先行していて危うく曖昧だが、廊下の奥や天井に伸びる柱の先に潜む暗闇の息遣いに確かに怯えていた覚えがある。
 それすらも今は揃ってじっと身を潜めていた。主を失い、この家そのものが嘆いている。

「一人で住むにはどうにも広い家さ……さぁ、こっちだ」

 廊下の先を見つめたまま立ち尽くすに、彼が先立って歩き出す。
 二人分の重みを受けた床板が浅く軋み、まるですすり泣く声のようにどこまでも着いてきた。
 少々複雑なつくりをしているらしく、既に何度かの突き当りを曲がっているが、廊下に沿って並ぶ襖や障子はどれも似た装飾が施され、彼の誘導がなければ迷ってしまうであろうことが容易に想像出来た。
 確かに一人で住むにはこの家は広過ぎる。だが、こうして廊下を歩いていても床は丁寧に磨かれていて、手入れは行き渡っていた。
 やがて彼の足がある襖の前で止まった。張られた襖紙が今まで見てきたものとは画していた。ここなのかと、彼女は思わず両拳を固く握りしめる。
 彼はちらりと一瞬彼女に視線を送ってから、息を吐くように言葉を落とした。

「母さん。ほら、ちゃんが来たよ」

2015/10/22 Up