
「僕は下のソファーで大丈夫です」
「そう仰らないでください。わたくしにとって、キノさんはとても大切なお客様ですもの」
きしきしと木の軋む音を僅かに響かせながら、キノとアリシアはエルメスのすぐ隣から伸びる階段を上っていく。やがて、キノが当初予想していた通り、目の前にはロフトのような空間が広がっていた。どうやら彼女は、普段ここを主に寝室として利用しているらしい。
屈むほどまではないが、天井はとても低く、向かって左奥の壁際へベッドが寄せてあった。そのちょうど少し右隣上にはいくつかの飾り棚が設えてある。
そして、飾り棚のすぐ下には、森の中を描いた絵がはめられた小さなフレームがかけられていた。アリシアはベッドのそばに寄るなり、そのフレームをちょうど九十度右上へとスライドさせた。どうやらフレームの大きさの分そこは小窓になっているらしい。
しばしじっと外で流れる雨の様子を見つめたアリシアは、静かにフレームを元に戻すとキノに向き直った。
「旅人さんには、せめて滞在される期間くらいはゆっくりと身体を休めていただきたいですもの。シャワールームは一階にありますから、あとでご案内致しますわ」
「すみません。本当に何から何まで。助かります」
ベッドの近くに鞄を置いたキノは、ちらりと先程のフレームに視線を寄せてから、階段を下り始めたアリシアの後へと続いた。やはり階段はきしきしと乾いた悲鳴を上げた。
それからキノがシャワーを浴びてダイニングへと戻ると、アリシアは彼に冷えたゼリーを勧めた。スコーンに添えられていたジャムと同じいくつもの木いちごが丸ごと入っているそれをキノは綺麗に平らげた。
「明日は、少し早めに家を出る予定なのですが、大丈夫でしょうか?」
「えぇ、早いのには慣れています」
「そう、それは良かった。それでは、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
キノが階段を上がってその姿が見えなくなるまで、アリシアはそれをずっと見送り続けた。
雨の降り注ぐ音だけが絶え間なく響いていた。
この家に訪れた時とは雨の調子は明らかに変わっており、今はまるで計算されたかのように一定のリズムを刻んでいる。風も既に止んでいた。
スコールの時期、森の動物たちは本能的に何か察するものがあるのか、どこへとともなく姿を消してしまうという話をアリシアから聞いた時、キノはこの森の入った当初に覚えた違和感について、ようやく合点がいったと納得した。
現在の時刻は深夜の二時、三時といったところか。仰向けの姿勢で眠っていたキノは、ふとその瞳を開いた。
彼は雨が天井を叩く音にじっと耳を傾けていたが、やがてゆっくりとその身を起こす。
室内は当然ながら暗闇に覆われているものの、一部だけぼんやりと光が滲んでいる場所があった。キノの視線がそこへと吸い寄せられる。光が漏れているのは一階からで、暖炉の明かりではないらしい。
音を立てないように階段の側まで寄ったキノは、更に階段に足をかけたところではっとして動きを止める。そして、彼はそのまま床に身体を伏せ、階段から頭だけを伸ばして階下の様子を窺った。
彼の位置からはアリシアはもちろんのこと、エルメスの姿すら捉えることが出来ないが、微かなランプの灯りと”声”だけは確認出来た。
ひそひそと空気を振るわせるその少女の声に、キノは神経を集中させる。
――……どうかしら? わたくしは少しも心配をしていないわ。
――えぇ、もちろん。けれど……もし、そうね。もしそのようにお考えならば……仕方がないことだけれども、どうしても、そっとしておいてくれないのなら、それも、仕方がないことなのでしょうね。
――ふふ。さっきも言ったでしょう? わたくしは何も心配をしていないわ。
少女は誰かと談笑を交わしているようだった。
初めこそ、この雨音のせいで少女の会話相手の声は掻き消えてしまっているのだろうと思っていたキノだったが、彼がいくら耳を欹ててみたところで、やはり少女の言葉に返答する肝心の声は全く聞こえてこない。
そして、少女の独り言としか形容し難いやりとりも、口調こそキノと話す時と何ら変わらないが、今はまるで本を朗読するかのように抑揚がなく非常に淡々としていた。
気配を断って傾聴していた彼だったが、やがて少女の言葉は途切れ、これ以上の進展はないことを感じ取りベッドに戻るべく静かに身体を起こす。そのまま上半身を捻ったところで目を見開いた。
振り返った彼の視線の先にある壁に映えたランプの光が、ゆらりと大きく揺らめく。
「確かにわたくしは魔女だけれど、絵本に出てくるような悪い魔女じゃないわ。それに、キノさんたちもきっとそうよ」
ふっと明かりが消え、あとはただただ静寂だけが残った。
しばしの間、同じ姿勢のままその場に留まっていたキノだったが、やがて短く溶けるような吐息を漏らすとベッドのある方へゆっくりと戻っていった。