カレイドスコーピオ

進撃の巨人

燭火 / 6

 身体が勢い良く上方へ引き上げられる感覚に、彼女は悲鳴すら上げられずに固く目を瞑った。
 冷たい外気が肌を嬲り、そろりと目蓋を押し上げれば、痛いほどの白に混じって涙が一筋零れ落ちた。そう言えば今日は数日ぶりの抜けるような晴天だった。干したシーツはもう埃まみれだろうなとそんなことが頭の片隅を過ぎる。
 自分の身体が建物の屋根より遥かに高い位置にあることに気付いたのは、胴に鈍く走る痛みの次であり、彼女は『死』がまさしく具現化された尖った白い歯が己に迫るさまをどこか他人事のように眺めていた。
 死ぬ前には今までの出来事が走馬灯のように走ると言うのは良く使われる常套句だが、今の彼女の頭の中は隅々まで白一色に染め上げられており、灯篭が回ったところで、映し出されるべき像はその形を結ぶことすら出来なかった。
 それでも、そんな一面の白色の中で不鮮明に揺らめくものがあった。形も色彩もはっきりとしないそれは、なぜか夜の闇の中で燃えさかる燭火のイメージを彼女に抱かせる。
 せめてその存在を終焉が訪れる前に確かめようと意識を寄せれば、みしりとまた全身を覆った圧迫感によって吹き消され、現実に引き戻されてしまう。
 巨人によって齧り取られるのと、やわやわとこうして握り殺されるのと、どちらがより苦痛なのだろうかと、いずれにせよ彼女の思考は死に向かってただ真っ直ぐに飛翔していた。
 巨人の歯はもう彼女の数十センチメートル前まで迫っていた。大きく開かれた口の周りには、まだ乾いていない血がべっとりと付いている。腹の中には既に幾人もの人間が詰め込まれているのだろう。もしかすると良く見知った人もその中に含まれているかもしれないと、頬を伝う涙が風で冷える感覚が意外に心地良いと思いながら、少女はすっかり諦めて巨人の顔を見つめた。
 白い凶器が彼女の肌に突き立てられようとした次の瞬間、巨人の背後、ちょうど首の辺りが赤く弾けた。
 そして、ほぼ同時に彼女の身体を捕らえていた巨人の手の手首辺りからも赤い血が迸る。彼女が疑問の声を上げるよりも早く、胴を圧迫していた拘束が緩み彼女の身体は宙に投げ出された。

――落ちる。

 零れた涙が、上方に向かって舞い上がる。まるで何枚もの写真を束ねて指先で弾いた時のように、その光景はやけにゆっくりと彼女の瞳に映った。だが、一転して自身の心臓がぎゅうと縮み上がり、落下していく衝撃に肌が粟立つ。
 だが、それもほんの僅かのことで、転落した身体が再び強く上へと引き上げられた。
 頬に刺すような強い風を受け、目を開けていられずに固く瞑る。今自分が置かれている状況について全く分からないが、彼女は自分の身体が、誰かにしっかりと抱きとめられていることだけは理解出来ていた。
 やがて、その人物の足が地面らしきところへ着地する音と共にあらゆる衝撃が一瞬にして止まる。弾む心臓の音が鼓膜の内側を叩いている。そこでようやく彼女は恐る恐る瞳を開き、自分を助け出してくれた人の顔を知る。

「……あ」

 真っ先に飛び込んできた栗色の髪と酷く懐かしいという激情に、今度こそ彼女は自分の頬を温かな涙が伝うのを感じていた。

 巨人の身体が、向かい側の通りに立ち並ぶ屋根の上に被さるようにしてゆっくりと倒れていく。派手な音と共に白煙が立ち上るのは、瓦礫の土埃のせいだけではない。巨人の削がれたうなじの断面から迸る血よりも遥かに激しく、蒸気のように煙が立ち上っていた。
 だらりと屋根に投げ出された巨人の腕はもうぴくりとも動かない。そして、その近くに黒髪の少女が立っている。彼女はちょうど巨人を薙いだであろう刀身を両腿に取り付けたケースへと納めているところだった。
 その様子を見て初めて、少女は自分が地面ではなく屋根の上にいることを知る。目の前で目まぐるしく廻った光景を未だに信じられず言葉を発せずにいると、彼女の隣にある突き出た窓の壁に何かが突き刺さった。少女がびくりと肩を揺らせば、すぐに「大丈夫だ」という言葉が降りかかる。彼は未だに一人で立つにはおぼつかない足取りの彼女の身体を支えてくれていた。
 やがて、壁に突き立ったワイヤーが巻き取られ、屋根の影からまた一人少年が姿を現した。

「間に合って良かった。ミカサ!」

 そう言って金髪の少年は安心したように表情を和らげた。彼もまた僅かに血が塗りつけられた刃を手にしており、ミカサと呼ばれた少女と彼があの巨人を倒したのかと彼女は理解する。
 金髪の少年は刃をしまうと、今度は向かい側のミカサに向かって大きく手を振った。彼女も手を上げてそれに答えると、ぼんやりと双眼を開いて空を仰ぐ巨人を一瞥してから、立体機動装置のトリガーを引いた。
 アンカーは寸分の狂いもなく狙いすました壁を捕らえる。そうしてあっという間に彼女は通りを飛び越えて、三人の側へと舞い降りた。

2013/08/19 Up