
招かれた室内には、少しばかり傷の目立つソファーと小さなテーブルして置いておらず寂しげなものだった。
がらんとしてまるでここで生活をしているようには見えない様子に、三人が各々室内を見渡していると、父親は申し訳なさそうに口を開いた。
「今週末に引っ越す予定なんだ。こんなものしかなくてすまないね」
そう言って彼は缶ジュースを机に並べた。
既にほとんどの家具は運び出した後らしく、今ここに残っているものも部屋を引き払うと同時に処分をする予定らしい。ならば今のこの状況も頷けた。
促されて三人は缶を手に取ったものの、それを握りしめたまま一向に口を付けようとしないジャッカルが、もう一度室内に視線を巡らせた後に真剣な様子で父親に尋ねた。
「ここから引っ越すんですか?」
「あぁ、前に会社から海外の支社に出向の話が来て断ったことがあるんだけど、もう一回考えてみたらどうだって改めて上から言われてね。色々と整理を付けるにはちょうど良い機会だと思ったんだよ」
「そんな、引っ越なんてしたら……」
独り言のように漏らしてジャッカルは一旦口を噤んだ。
唯は彼の膝の上で固く握られた右拳が、小さく震えているのを見た。
父親からはちょうどテーブルの陰に隠れてそれは見えない。けれど、ジャッカルの怒りや失望と言った複雑な感情が彼の手の内で悲鳴を上げているように彼女には感じられた。
恐らく彼の頭に浮かんでいるのは、実や真のことなのだろう。父親は恐らく今もまだ彼らがいる事実を知らない。知りようがなかった。
ジョーカーに縛られているであろう二人は、遠ざかる父親をどういう気持ちで眺めていたのだろうか。
もしかすると先の彼の感情は、むしろ父親ではなく何もすることが出来ないジャッカル自身に対して向けられていたのかもしれない。
ジャッカルの変化には丸井も気付いていた様子だった。けれど彼もまた、それを口にする訳でもなく、黙々と缶ジュースを飲んでいたが、ふと思い直したように父親に視線を向けた。
「すいません。さっき、俺の事を見てびっくりしたような顔してましたよね? 俺、実くんや真くんのことこいつ、あ、ジャッカルから聞いてたんですけど、二人のお父さんに会うの初めてだったからちょっと気になって」
唯とジャッカルは父親との面識はあるが、丸井に関してはこの場が初対面であるはずだ。ゆえにそれがより印象に残っていたのだろう。
父親は、あぁと頷いて丸井の顔をじっと見つめた。
「ええと。君の名前を聞いても良いかな?」
「俺ですか? 丸井。丸井ブン太ですけど」
「……そうか、やっぱりか」
「やっぱり?」
向けられた視線を真正面から受け止めながら怪訝そうにおうむ返しをする丸井に、父親は首を横に振ってから話を続けた。
「君に翔太くんっていう弟がいるだろう?」
「翔太? 翔太は確かに俺の弟ですけど」
急に出てきた弟の名前に、丸井の眉間に更に皺が寄った。
「その子がこの前ここに来たんだよ」
「ここに!?」
丸井だけではなく、他の二人の疑問の声も綺麗に重なった。そんな予想外の反応に、父親も驚いたように目を瞬かせる。
思わず唯もジャッカルも丸井を見やった。だが、丸井の様子を見ても翔太の行動は全く彼の知るところではなかったらしい。
普段の関係性からも、双子のことで翔太が兄である丸井に隠し事をするとは思えなかった。
「兄弟だから当然だろうけど、やっぱり良く似ているね。君を最初に見た時に翔太くんの顔が浮かんだんだ。どうやら病院で実が彼に約束をしていたみたいで、それを受取りに来たと言っていてね。実と仲良くしてくれていたみたいだから、貰ってくれてこちらとしても嬉しかったんだけど、荷造りをする前で本当に良かった」
「それで、弟は、翔太は一体何を取りに来たんですか?」
「本だったよ。実が本が好きなのは分かっていたけど、まさかゲーテなんて読むとは思わなかったよ」
「……ファウスト」
「そうだよ。良く分かったね……大丈夫?」
呆然とする丸井に、父親の心配するような声が降りかかる。彼ははっとして大丈夫ですと答えた。
幸村の元から消えたファウストが、双子の元をすり抜け翔太の手元にある。それは、唯やジャッカルは元より丸井自身が一番衝撃を受けたに違いない。
ましてや翔太本人がそれを丸井にすら伏せていたということは、偶然ではなく意図的に彼は本を手に入れたのだ。
丸井の顔は明らかに蒼白に染まっていた。
彼も自分はともかく、身内が巻き込まれることはないとどこかで思っていたに違いない。それは丸井だけではなく唯もジャッカルも同じだった。
自分に近しい人間もまたジョーカーに遠からず関わってしまう。その事の深刻さを改めて突き付けられた気分だった。
言葉とは裏腹に狼狽する丸井を見て、唯とジャッカルが慌てて代わりに会話を取り持ったが、その間も彼の表情は晴れないままだった。