
筆舌に尽くし難いその感覚に、仁王の肌に走るさざめきは止むどころか増すばかりだった。
仁王の背後に佇む”それ”は、彼に対して何か行動を起こす様子は見られない。しかしながら、”それ”が孕んでいるものは、彼が知りうる限りでも殊に厄介だった。
「どうして、あんなものがお前さんに……」
そう絞り出すのが精一杯で、千歳に言われなくとも仁王も振り返るつもりは全くなかった。
やがて数分ほど経つと、仁王の背後の気配が唐突に消えた。
消えたという表現は正しくないかもしれない。どちらかと言えば、潜ったと呼ぶべきだろうか。
驚くべきは千歳の反応だ。彼もまた鋭敏な嗅覚をもってこの存在の認知しているはずだ。あるいはもっと至極単純な理由で。
千歳は、ちらりと右肩に視線を寄せてから首を傾げた。
「俺にも良く分からんね。ばってん、あんヒトは俺から離れられんたい」
「……冗談じゃろう? あれは、あれもお前さんに宿っとる。一人の人間に神惹と神憑(かみつき)が同時に入るなんて聞いたことがないぜよ」
「あら神憑と呼ぶとね?」
仁王の深刻さを滲ませた言葉にも、千歳は感心しきりに目を見開くだけで、どこまでも他人事のような反応を示すばかりだ。
「お前さん、さっきもそうだったが、それがどういう意味を持つかまでは分かっとらんじゃろう」
「ん? 確かに神惹や神憑とか専門的なこつは知らんかったばってん、どっちも神様なんは分かっとうばい」
千歳の左手が再び右肩に伸ばされる。
彼の瞳は肩に鎮座するそれをやはりとらえないが、千歳の指先が触れるとじっと目を伏せた。
「六さんは元々じいちゃんとこにおったばい。色々あってん、身体の一部ば貸してやるこつになっとるばい」
千歳の話によると、彼が六さんと呼ぶその大鯰は、彼の祖父も自身の父親から預かり受けたという経緯があり、どうやらかなり古い時代からそうやって代々続いてきたものらしい。
彼の実家は古く、いわゆる旧家に数えられる。かつては庭に小さな沼があり、六さんはそこに住む主と呼ばれる存在だったそうだ。
その沼が事情により枯れた際、棲家を失った大鯰のために当時の千歳家当主が仮宿として自身の右肩を貸したのだが、思いのほか居心地が良かったようで、以降数代に渡って千歳家の男児に棲みついている。
当時の当主と六さんとの間に、どのような縁があったのかまでは千歳も詳しくは知らないそうだが、少なくとも千歳を災厄から守る役割を果たしてくれている。
人に対して守護的な力添えをしてくれるものとしては、例えば先祖など身内の霊が良く例えられる。だが、六さんのように神に転じたものが人に宿るのは非常に稀なことだ。
千歳を例とした神の目に好意的に留まった人間は総称して神惹と呼ばれる一方、仁王がその気配にだけ触れた神憑も方向性は異なるにしろ、神惹と同様に人に対して向けられる感情は同一だ。
だが、神惹と大きく異なるのは、それらは気に入った人間を殊に手元に置きたがるのだ。そこに本人の意思など全く尊重されない。神憑とは『神に魅入られた存在』と呼ぶのが適当なのだろう。
「あんヒトとあんま話したこつばなか。六さんからも目を合わすんな言われとるたい」
にこにこと話す千歳の目元から、ふいに笑みが消えた。
「あんヒトは、元々唯ちゃんとモウゾウガクレをしとったい」
「モウゾウガクレ?」
「かくれんぼのこつばい。じゃけん、俺が先にあんヒトに見つかったけん鬼じゃなか。もう唯ちゃんを見つけられんばい」
「お前さんの話の通りなら、初めは無川が神憑になるはずだったんじゃろう……あぁ、そうか、そうだったのか。だからか……」
「どげんしたと?」
マユがこれまで幾度と住む土地を変えてきたことは、仁王も以前に彼女の母親から聞き知っている。
ようやくこれで合点がいったという表情を浮かべたあと目を伏せた彼を見て、千歳は疑問をそのま口にする。
仁王は構わずに続けた。
「無川が、そいつに触れられたか覚えとるかのう」
「あぁ。あんヒトは唯ちゃんの肩を掴んどったけん、間違いなか」
「だから無川は、あんな不完全な言換しか出来なかったんじゃな」
「仁王は本当に色んなこつば知っとうね。なら、唯ちゃんの方は心配なか」
「……すまんのう」
「どうし仁王が謝らんといけんと?」
「神憑とはいえ、あれも立派な神様じゃ。俺にもどうにもしてやれんぜよ」
「仁王が気にする必要ばなか。こらは俺とあんヒトとの問題たい。六さんも助けてくれとうけん少しは持つばい」
千歳がそうやって薄氷の上に並べていく言葉に、仁王は咄嗟に踏み入れかけた己の足を抑え込んだ。彼はかくれんぼに見つかった時から、その意味を理解しているのだ。
千歳の言葉を最後に途切れた会話を縫い繋ぐかのように仁王の携帯電話が震えた。
彼がポケットに入れていたそれを確認すると、柳生より試合開始が迫っている旨が打たれた短いメールの着信があった。
「もうすぐ立海の試合とね。決勝戦楽しみにしとうばい」
「あぁ、そっちも頑張りんしゃい」
立ち上がった仁王は、靴の底に纏わりついた土をコンクリートの縁で軽く拭うと、あとは千歳に視線を向けることなく、立海がいるコートへ向かって歩き出した。
彼の後ろ姿が完全に消えるまで見送ってから、千歳は木陰から漏れる空を見上げ目を細めて呟いた。
「今日は、随分と祭囃子の五月蝿かね」