
次に唯が目を覚ました時、隣の藤ヶ谷のベッドは空だった。
時刻としては六時半。決して遅過ぎる目覚めではないが、藤ヶ谷が唯に対して書き残していったメモを見る限り、どうやら彼女はレギュラーたちの早朝練習に同行するため、一時間ほど早く部屋を出て行ったようだ。
唯は、まだ残る睡魔を噛み殺してから、枕の下に手を差し入れると忍ばせておいたトランプのカードを取り出した。
昨晩これを見つけてからというもの、長いこと色々と彼女は思考を重ねていたせいで、すっかり目が冴えてしまっていた。いっそ朝までこうして起きていた方が良いかと考えたものの、この合宿中に万が一にも体調を崩してしまっては、皆に迷惑をかけてしまうかもしれない。そう彼女は結論付けて無理矢理にでも眠ることを選択したが、結局それは正解であったようだ。
藤ヶ谷は眠っている唯に気を使ったのだろう。室内のカーテンは閉じられたままだった。唯は窓辺へと近寄ると、一息にそれを開く。窓も開けようとしたが、思い止まった。
日の出の時間は過ぎていたが、眼下に見える森はほのかに白んでいて、所々に夜明け前の名残の霧が被さっている。もう少しすれば完全にそれも消え、鮮やかな深緑色に生まれ変わる。
本日の天候は晴れとの予想だ。けれど、今は若干風が吹いているようで、木々の上を霧が一方向へ流れていく。その様子を見つめていた唯は、思わず両腕を擦った。
彼女は手に持っていたカードに視線を落とす。
夜が過ぎ大分落ち着いたこともあってか、こうして改めて確認している内に、色々と気になるところが見つかった。
カードのジョーカーは、その殆どが黒一色だったが、瞳と左頬にある涙を模したペイントの部分だけは青色で描かれている。表情も第一印象の醜悪なものではなく、道化師特有のおどけた笑みを浮かべており、まるで違うものだった。
一枚目のジョーカーの裏面と、二枚目のジャックのスペードの表面には、それぞれ縁取るように薄く糊を塗った跡があり、爪で軽く引っ掻くと、それは簡単に剥がれ落ちた。
当時は気が動転していて、何か呪術の類がかかっていないか簡単に視ただけでカードを開いてしまったが、今思えば、切原が藤ヶ谷が撮影した写真の中に閉じ込められるという事件が起きた際に、彼女の血でもって記された呪符で封じたページがあった。
もし、これもそれと同一のものであったのなら、今頃とんでもないことになっていたかもしれない。
仁王に頼れない以上、これまでよりも軽率な行動は控えなければと、彼女は窓の側にあった小さなテーブルの上に二枚のカードを並べた。
最も気になる点は、書かれているこの短い文章だ。
小さな文字は手書きで書かれており、初めから終わりまで乱れもなく綺麗な形をしている。字体だけでは書き手が男女どちらであるか判断は難しいが、几帳面な性格をしているであろうということは想像出来た。
(少なくとも、佐竹くんの字ではなさそう)
思い出したように唯はベッド脇に置いた鞄へ向かうと、中から一冊のノートを取り出した。これは、美術部で使っている日誌代わりのものであり、彼女はそこから佐竹が書いたページを開く。
カードの場所へと戻り、それと見比べる。佐竹も比較的読み易い文字をしているが、全く似ても似つかないものだった。
佐竹だけではなく、仁王や丸井の文字なら唯は何度か見たことがあった。その他のレギュラーたちの文字の癖はさすがに彼女にも分からないが、丸井は少し丸みを帯びた女子が好んで書きそうな文字だったのに対し、仁王は初めて唯が見た時に驚くほど綺麗な文字をしていた。
だが、このカードの文字も仁王のそれではないし、そもそもジョーカーを追うべき側の彼がその当人であるはずはないのだ。
もちろん、これがジョーカー本人が書いたものとは限らないし、仮に本人だとしても字体、文体共に意図的に変えている可能性も十分に考えられる。
それでも、こうして手がかりを自ら示してくれたのは大きな変化であり、例えこんな僅かな情報でもジョーカーに繋がるヒントを取得出来るかもしれない。
そのためには、まずレギュラーたちの文字のサンプルを早急に集める必要があった。
カードの警告の通り、唯自身目立った行動は出来ない。仁王は当然のこと、柳や幸村あたりに悟られれば、必ず問い詰められる。そうすれば、佐竹に危害が及ぶ可能性は限りなく高くなるだろう。
ジョーカーは、唯が複数人と協力関係を築いた上で自分を追っていると知っている。今回のこの行動の理由の一つに、そのネットワークを分断する狙いも考慮したと考えて間違いない、
だが、それ以上に、彼女がこうして戸惑い、思案する様子をどこかで楽しんでいるようにも感じられた。それは、絶対的な余裕がジョーカーにあるからこそ出来る行為だ。
ジョーカーからの接触が、この限りで終わるとは考えられなかった。カードの内容を遵守していれば、もう一度唯へ接触を図るはずだ。上手く立ち回れば、その分だけこちら側に有利な手に成り得るカードを増していくことも出来るだろう。
そのためにも絶対に糸口を掴んでみせると、唯はカードをしっかりと握り締め、徐々に薄らいでいく霧の残骸をじっと眺めていた。