
欠伸を一つすると、ぼろりと唯の睫毛にかろうじて引っかかっていた涙が、満を持して転がり落ちた。
指先で拭っている途中にまた大きく欠伸が漏れて、彼女の視界は淡く滲む。
まだ薄暗い部屋の中で、枕元に置いておいたはずの物を探る。
しばらくシーツの上を彷徨っていた手が携帯電話を掴み上げ、そのままディスプレイを確認してみれば、彼女の予想より大分早い時刻を表示していた。どうやら一時間以上早く目が覚めてしまったらしい。
試しに布団の中へもそりと頭まで潜り込んでみたものの、最早、再び眠れそうな感じはしなかった。
唯は早々に諦めてベッドから降り、窓際まで行くとカーテンを一思いに引く。するとほの白らんだ空が、部屋の隅々を染め上げた。彼女は反射的に目を細めながら壁にかけていた制服に手を伸ばす。
パジャマの裾からシュシュが覗いたのが目に留まり、それを引き金に昨日起きたことが弾けるように脳裏に蘇ったが、今となってはもう、当時の恐怖の残留は彼女に残っていなかった。
「久しぶりにあの夢、見たなぁ」
ブラウスのボタンを留める手を一旦止めて、誰に言うわけでもなく彼女は呟く。
ひとまずはシュシュのことを頭の片隅に追いやって、昨夜見た夢の内容を思い描いてみる。
彼女の言う『あの夢』とは、登場人物や背景など全てが、影絵で構成されている夢のことを指していた。彼女は昔から時折この夢を見ることがある。
夢の中で唯自身はどこか狭い部屋の中で椅子に座っている。そして目の前にはそこまで大きくない額縁が一つ壁に掛けられている。
波模様のレリーフが施されたそれは、全て金色に染められている。決して安っぽい色ではなく、本当に金張りなのではと見間違えるほどだ。それがそうではないと言うのは、過去の夢の中で確認済みだった。
その額の中に収まっているのは、名画でもましてや自分が描いた絵でもない。ただの真っ白い紙が鎮座していた。
オルゴール調の静かで聴いたことのない音楽が流れ始めれば、それが合図となって白い画面のあちらこちらに滲み出るようにして、黒い影が浮かび上がる。それらが、さながら人形劇や紙芝居を模して目まぐるしく動き回るのだ。
彼女はそのモノクロの光景をただ黙って見ているだけなのだが、肝心の内容の殆どは、昔の記憶に由来する事柄という共通点以外は、ストーリーに一貫性はなく極めて断片的だった。
昨夜見た夢には、これまた久しぶりに一人の少年が出てきた。と言っても、劇中で流れる登場人物の声は全て唯のものであり、少年と判断したのはその影絵のシルエットと彼女の主観に他ならない。
その少年の名も、どういう話し方をするとかいう人物性も、今の彼女はほぼ覚えていなかったが、酷く懐かしく身体の芯が揺さぶられるような感情が、夢から覚めても深く刺さったまま抜けない棘の如く、柔らかい痛みを伴って今も残っている。
脆く細い夢の糸が千切れないように慎重に手繰り寄せながら、少年のことを少しでも思い出そうとしたが、結局は上手くいかなかった。
自分の中で点在している記憶の引き出しの保管状態は、思いのほか管理が適当なようで、その中に眠るパズルのピース状の記憶の断片は、時を重ねる内にどこか別な引き出しに紛れ込んでしまっているらしい。
それでも、どうして今更になってこんな夢を見てしまったのかということに関してだけは、唯なりの確信があった。
その少年もまた、仁王や今の自分のように、そこに居るはずのない何かを常に目にしていたのだ。
早起きをした割には、結局のところ普段と同じくらいの時間に教室に着いた唯は、これまたいつもと同じように誰とも挨拶を交わすことなく真っ直ぐに自席に着いた。
普段よりも教室内が僅かに騒がしいような気がしたが、彼女は気にも留めずに、必要なものを取り出した鞄を机の横にぶら下げてそのまま机の上に上半身を預ける。
ひんやりとした木目が頬に当たる感触に、小さく息を吐き出しながらそっと目を閉じる。
別に特別眠い訳でもないが、こうしてこのままHRを知らせる予鈴が鳴るまで、この姿勢を貫く行為自体に意味がある。狙い通り、わざわざ今の彼女に話しかけるどころか、目をかけようとする人間などいなかった。
少なくとも、彼女の計画では、このいつもと同じ状況がいつも通り続くはずだった。
ふいに、かつかつとやけに耳につく足音を唯の耳が捕える。何だろうと何となしに伏せた瞳を開いてみると、徐々にその足音が自分のいる方に近づいていることに気が付いた。
関係ないだろうと、再び目蓋を下ろしたところでその足音が止まる。
「……おい」
自分の丁度真上辺りから声が聞こえた気がして、唯は反射的に目蓋を浮かせる。
軽く身じろぎしながら、まさか自分に声がかかったのだろうかと眼前に視線を泳がせてみるが、誰の姿もない。
気のせいかと、もう一度目の前の世界に幕を下ろそうとして、再び声が降りかかった。
「ちょ、寝るんじゃねーよ! 無川!」
名字を呼ばれて、咄嗟に彼女はぱっと目を見開いた。
ここではないどこか違う場所に、自分だけが隔離されたような感覚で居たつもりだったが、自分を呼ぶたったその一言で、急速に教室へと引き戻されたことに内心驚いていた。
恐る恐る視線を上げれば、眩しいほどの赤い髪が彼女の瞳に飛び込み、思わず目を細める。
「ったく、朝っぱらからお前は寝てんのかよ」
丸井は大げさにため息をつく。
その瞬間に教室内のざわめきが増したのは言うまでもなかった。