
枕が変われば何とやらというのも、さすがに限度があるらしい。
ほの暗い部屋の中、唯はのろのろとその身を起こした。
精神的には非常に疲れているはずなのに、いざ横になっても全く眠ることが出来なかった。
目を閉じれば確かに眼前は暗闇に染まる。だが、それで終わりだ。疲れた際に顕著に現れる、あの身体ごと引きずり落されるような粘ついた睡魔は一向に訪れない。
暗闇の中で、意識だけがまっすぐに一点を見据えている。その先にあるのが、周囲の暗闇の溶け込んだ、あの黒曜の瞳だと気付いた唯は、いよいよ目を閉じることすら嫌になった。
どうしようもなくなって彼女が視線を泳がせると、畳の上に格子の形の影が落ちているのをとらえた。そのまま障子へ視線を向ければ、どうやら何か光源があるのか、室内よりも外のほうが大分明るいらしい。
今度は反対側の隣の部屋へ続く閉められた襖へ視線を流す。近侍の部屋であるそこには加州がいるはずだが、彼の様子は当然ながら彼女には全く分からなかった。
(今、何時なんだろ……)
この部屋には時計がない。唯は今更になってそのことに気が付いた。
体感的に時間を理解してみようにも、不慣れな環境にいたせいか、もうすっかりその感覚は麻痺してしまっている。
彼女は布団のそばに畳んでおいたコートにゆっくりと手を伸ばした。ポケットの中を探ると、身に付けていた腕時計が出てきたが、既に針は止まっていた。
電池は交換してからさほど日は経っていないはずだ。特にどこかへぶつけてしまった記憶もない。それでもこうして時を刻むのを放棄してしまった。やはりここは時間の流れすらも異なっているのだろうか。
もう片方のポケットを探る。そこに入っていたのは、叔母からもらった守り袋だった。
彼女の私物はこれだけだ。携帯電話も財布も何もかもを叔母の家に置いてきてしまった。今になって思えば、後悔しかないが、仕方がないと割り切るほかない。
無川唯を証明するものは他に何もない。今、唯一残されているのは、自分自身が無川唯であるという確固たる自信と、彼女を管理している政府だけなのだ。
それも自分の明日の行動如何によって、より曖昧なものになってしまうかもしれない。
なぜ急にそんな思いが浮かんだのだろうかと考えてみると、唯が本丸に来てから一度も、こんのすけにも加州にも全く自分の名前を名乗っていないことに行き着いた。
こんのすけも彼女を呼ぶ時は、一貫して『審神者さま』と表現していたし、加州も特に尋ねてこなかったというのもあってかすっかり彼女から名乗る機会自体を逃してしまったことに起因する。かと言って、今更改まるのも少々憚られた。
この本丸も加州も、しいて言えばこんのすけも、唯が政府に恭順している限りは心強い味方なのだろう。
だが、もし違えれば話は別だ。政府は唯を元の居場所から切り離し、全てを取り上げようとしている。ならば、せめてこの自分を元の居場所と繋げてくれているこれらは、他でもない彼女自身だけが知っていなければならない。
そう結論付けて、唯は腕時計と守り袋を服のポケットにしまった。それから、今度は立ち上がり障子に向かって歩き出す。
音を立てないように気を付けながらそっと障子を開けば、外が明るい理由がすぐに分かった。月が出ていたのだ。
叔母の家で過ごした夜の時も澄み切った月の色に驚かされたものだが、これはよりいっそう明るかった。それでも瞳に染み付く棘のあるものではなかった。こんなにも明るい月夜を彼女は知らない。
縁側に沿ってあの桜の木が見えるところまで行くと、月に照らされてほのかに白く煌く姿に唯は思わずため息を漏らした。
中庭には桜の木の他、大きな池もあり、鏡面となったそこにも崩れることなく丸い月が浮かんでいる。
あの時、加州が座っていた場所と同じところへ腰を下ろした唯は、ぼんやりと桜の木を見上げて呟いた。
「……綺麗」
朝、目の下にわずかばかりの隈を残した唯を見た加州は、それでも何も尋ねてはこなかった。
恐らく彼は、昨晩彼女が部屋を抜け出したことも気付いていたはずだ。だが、彼女の心情を察して、昨日と変わらない態度で接してしてくれるあたり、やはりどうにも人間らしい。
こんのすけは去り際の言葉の通り、唯と加州が朝食を終えた直後に姿を現した。
「おはようございます。審神者さま」
こんのすけは、まっすぐに唯を見据えていた。
シチュエーションこそ全く同じだが、昨日のような殺伐した雰囲気ではなく、ただただ辺りは静寂に包まれていた。
「早速ではございますが、昨日の話の続きからご説明させていただきます」
そう言って話を進めようとするこんのすけには、昨日の唯に対する労いの色は全くない。
その徹底した姿勢もここまでくると感心すらしてしまうものだが、唯もまたこのままこんのすけのペースで話を進めさせるつもりはなかった。
「その前に、最後に確認させて」