
こめかみの辺りがずきずきと激しく痛むのを感じて、少女は恐る恐るその場所へと手を添える。
ぬるりとした感触に血が出ていると理解したが、その色彩まで彼女が知ることは出来なかった。
今の少女の視界は常闇で覆われている。こうして身を潜めている場所も、人一人が入るだけで埋まってしまうほどに狭く、酷く埃っぽい。
普段は地下貯蔵庫として使われているそこで、彼女はこの世界との境界を引くために固く瞳を閉じていた。
先程までひっきりなしに聞こえていた怒号は既に聞こえなくなっていた。代わりに上方からは絶えず地鳴りのような音が響き、その度に家が軋む音や周囲の棚から物が崩れ落ちる音などが響き渡っている。
その影響か、この地下貯蔵庫を支える数本の柱は歪み、中には完全に裂けてしまっているものすらある。
少女には自ら選び取ることが不可能な複数の終焉が用意されていたが、その内の一つであるこの光景を直接目にしなかったことは、今の状況においては少なからずとも幸運と呼べるものだったのかもしれない。
振動で棚から零れ落ちた瓶が、彼女の足元で悲鳴を上げた。
口から「ひっ」という掠れた声が漏れ、彼女は慌て両手で覆い声を噛み殺す。
いつ終わるとも知れない恐怖の中で、少女はただ一人この場所にいるしかなかったのだ。
(……っ!)
目じりから、じわりと熱く浮かぶものを感じた彼女は、ますます力を込めて目を瞑った。
一度零れてしまえば、栓が弾けるように嗚咽が溢れ出ることを止める術はない。だがそれは同時に彼女の近くで佇む終焉を引き寄せてしまう。少女はただ必死に耐えるほかなかった。
突然、周囲が大きく揺れたかと思うと、バリバリという耳をつんざく音が少女の鼓膜を叩いた。
それが上に積み重なっている瓦礫をどけている音であることに気付いた彼女は、いよいよ膝の力を無くし、その場に崩れ落ちる。
今のこの状況で、自分を助けに来てくれる人などいるはずもない。
もし、いるとするならば――
次の瞬間、彼女の上方にあった拉げた貯蔵庫の扉ごと、出入り口部分が勢い良く引き剥がされた。弾みで空間自体が激しく揺れ、棚のあらゆるものが床や壁へと叩きつけられる。
勿論少女も例外ではなく、身体のあちらこちらに小さな裂傷が刻まれていく。それでも声だけは漏らすまいと頭部を守りながら口を真横に引き絞った。
ふいに音が止んだかと思うと、目蓋越しの視界が一段と明るくなる。
はっとして顔を上げれば、少女の視界いっぱいに写ったのは、にたりと笑う巨大な人の顔だった。
「やっと念願叶ったりってとこだな」
「まぁな。ここまで来るのに五年も無駄に時間を過ごした」
心底うんざりしたと言う顔で、彼は自身の栗色の髪をぐしゃりと掻き混ぜてからコーヒーを一息に煽った。
今二人がいるのは、通りに面したオープンテラスだ。午後の昼下がりという絶好の休息の時間帯でもあったため、通りを往来する人の姿は疎らだった。
「はぁ、言ってくれるよな。憲兵団からよりによって調査兵団へ転属したいなんて物好き、お前くらいだぜ。この主席ちゃんがよ」
「その呼び方好い加減止めろよ。俺以外にも主席なんて憲兵団にはゴロゴロいるだろ」
「でも勿体ねーよマジで。何もわざわざ自分で寿命縮める必要なんてないじゃねーか」
「だからだよ。勿体ねぇんだよ。俺みたいに力がある奴が、何でそもそも憲兵団なんかになんなきゃなんねぇんだ。それこそ調査兵団や今ならウォール・ローゼに属している町の駐屯兵団にいるべきなんだよ」
「へーそりゃ自慢ですか。主席ちゃん」
だからその呼び方は止めろってと、彼がじろりと睨みつければ、もう一人の男がふと真面目な表情になって彼を見た。
ウォール・マリア南城塞都市シガンシナ区の壁が超大型巨人によって破られ、人類の活動領域はウォール・ローゼまで後退せざるを得ない状況になったのは、五年前のことだ。
当時、憲兵兵団に入隊してまもない彼は、最深部であるウォール・シーナ東城塞都市ストヘス区でその知らせを聞くや否や、すぐに最前線への異動を願い出たものの、当然ながら受理はされず、憲兵団としてストヘス区の治安維持に心血を注ぐことになったのだ。
そして、ウォール・ローゼによって守られている区域も、壁一枚を隔てた外側は巨人たちのテリトリーであり、今や決して安全と呼べる状況ではなくなっている。
「お前、今ならまだ間に合うぞ」
「は? 何言ってんだよ」
「リオンのためを思って言ってやってんだ。お前、ホントにムカつくけど、技量だけじゃなくて頭も回る奴なんだからよ」
「だからあいつらと同じように腐れってか?」
「それはそれだ。お前なりに憲兵団としてやれることだってあるだろ」
「もう、ウォール・ローゼだって、いつ超大型巨人と鎧の巨人にやられたっておかしくない。何より、憲兵団はそもそも技量なんて必要としてねぇ。あの場所にあるのは、怠惰と欺瞞だけだ。俺たちの三年間の訓練が、そのために消費されたなんて反吐が出る。けど、情けねぇが俺一人じゃ、あの腐った組織を根底から変えることなんて一生かかっても出来ない」
「でも……」
「もう、決めたんだ。やっとこれで自分の役目が果たせる」
「リオン……」
リオンと同じくにコーヒーを啜った男は、空を仰ぐと諦めたようにはぁとため息をついた。
一度言い出したら決して引くと言う言葉を知らない、中々に面倒な性格だというのを訓練兵団時代から誰よりも良く知っているのも彼だった。
「ま、やるからには死ぬんじゃねーぞ」
「お前も完全には腐るなよ」
「おう。それにしても、偶然とは言え、トロスト区に臨時視察とはな。それこそお前、憲兵団に入ってから五年、訓練兵時代も含めりゃ八年ぶりじゃねぇか。家に寄るんだろ?」
「全部片付いて時間があったらな」
「仕事熱心だねぇ。ホント頭が下がります」
男がそう言って左拳は背腰に右拳は自身の左胸を叩いてみせた。
これは、「公に心臓を捧げる」という意味を模した、兵団共通の敬礼であった。
「んじゃ、リオンのためにも早く仕事を終わらせましょうかね」
「言葉通りに頼むぜ、相棒……っ!?」
リオンが苦笑して口を開くのと同時に、激しい地響きと共に建物が大きく揺れた。
咄嗟に警戒の体制をとった二人の周囲では、突然のことに建物などに捕まり身体を支えている者から、反動で地面に倒れ込んだ者もいる。
次の瞬間、二度目の衝撃が彼らを襲い、リオンのコーヒーカップが地面に落ちて砕け散った。