
「切原さ、何で無川先輩が言ったこと、信じようと思ったわけ?」
廊下を走りながら、ちらりと切原が持つ携帯電話の方を気にしつつ国舘が小声で尋ねた。
切原は、声が唯に届いてしまわないよう、携帯電話の通話口を指でしっかりと抑えると、躊躇いがちに口を開く。
「あのな。話し始めた時はそんなことなかったんだけど、途中で無川先輩の方から……沢山の人の声が聞こえてきた。人ごみの中で話してる時のあのがやがやってした感じじゃなくて、苦しそうに呻くような沢山の声」
「何だよ。それ……」
「あぁ、俺も意味分かんなくてぞくってした。でも、無川先輩はそのこと何も言わないし、変なこと言って怖がらせるわけにもいかないじゃん。そもそも無川先輩は、そういうの慣れてそうだから怖がるか分かんねーけど。それに柳生先輩のあとに無川先輩から電話なんてタイミング良過ぎるだろ? 絶対何か関係あるって思った」
「でも、無川先輩はあんな風に説明したけどさ、無言電話の犯人、本当はやっぱり無川先輩かもしんねぇじゃん」
やがて二人は長い廊下を抜けて、階段下まで辿り着いた。
後は階段を数階上がれば、唯が来てくれと告げた立海の中で“有名な噂話の一つ”でもある曰くつきの鏡へ着くだろう。
「多分、それは違うと思う。どっちかっつーと無川先輩は、こっくりさんのあと、出来るだけ俺たちに近づきたくないって感じだったし」
「……あー、まぁな」
「無川先輩の話も、本音言ったら全部はまだ信じられねーけど、でも今はそうも言ってらんないだろ」
切原が、階段を数段飛ばしながら先に駆け上がっていく。
国舘はまだ何か言いたげに口を開いたが、結局はその先を飲み込んで彼の後に続いた。
唯は携帯のディスプレイを見た。
バッテリーは三分の一も減っていない。
普段から最低限の時にしか携帯電話を使っていないという事実を喜ぶべきか悩むところだが、少なくともバッテリーが起因して切原との通話がすぐに切れてしまう状況は避けられそうだった。
彼女は、誤って切電してしまわないようにキーロックをかけると、ゆっくりと立ち上がった。
携帯電話の先からは、二人が走っている足音が断続的に聞こえてくる。やがて音の調子が変わったことから、恐らく階段を駆け上がっていく音なのだと理解した。
この分なら、校舎の西側の四階と三階の間にある踊り場の鏡まで彼らが到着するのも時間の問題だろう。
切原たちには、予め唯の携帯電話番号を伝えており、もし、通話が切れて数時間連絡が取れなくなった場合には、唯と面識のある丸井やジャッカル、仁王に相談するように言ってある。
そして、併せて彼女が今置かれている状況も話していた。ただしいまだに唯がこういった“おかしなこと”に対して、十分に対処が出来る人間だと信じて疑わない彼らに向けての話だ。当然ながら仁王に関する事柄は伏せていた。
切原と国舘は一様に言葉を失っていたが、やがて切原が了解ッスとはっきりと答えを返した。国舘もすぐに続いたが、切原に比べれば腑に落ちないという声なき色がそこには滲んでいた。
国舘の反応はともかくとして、切原のその意外な態度に彼女は面食らったが、今だけでも良いから信じてもらえることに越したことはない。
唯はそろりと廊下へと続く扉を開いて、まず頭だけをそこから出して外の様子を伺った。
彼女の予想していた通り、教室内よりも廊下はずっと暗く、視界は非常に悪かった。
切原と通話を繋いだままの携帯電話は、数分間ボタン操作をしていないと、バッテリーの消費量を抑える為に自動的に省電力モードに切り替わる。現に今はディスプレイの明かりは消えていた。
キーロックは、単純に終話ボタンなどの機能を無効にするだけだったはずだと思い出し、彼女が試しに適当なキーを押してみれば、予想通り浮かび上がるようにディスプレイに四角い光が灯ったが、ボタンを押した時に出るあの識別音は響くことがなかった。
この小さな人工灯がこんなにも頼もしく思えたのは初めてで、一瞬、この光を懐中電灯の代わりに出来ないかと思い付いた唯だったが、すぐにそれを否定する。そんなことをすれば、携帯電話のバッテリーの消費が激しくなるのは明らかだった。
今は切原との通話を継続させることが最優先事項な以上、この選択は決して得策ではなかった。
進退が窮まるほどの深い闇ではない。じっと目を凝らしていれば、自然と目は慣れていくだろう。
そうなるべく楽観的になるように考えて、唯はいよいよ廊下へと一歩を踏み出した。